January 2812001

 鯛焼の頭は君にわれは尾を

                           飯島晴子

ツアツの「鯛焼(たいやき)」を二人で分かち合う。しかも、餡の多い「頭」のところを「君」に与えている。それこそアツアツの情景だ。なんの企みもない句。飯島晴子の署名がなければ、「へえ、ご馳走さま」でもなく、簡単に見逃してしまうような句だろう。実は揚句は、亡き夫を偲んで書かれた句である。そういうことは、句集を読まないとわからない。前年の六月に、作者は夫と死別している。そのときには「藤若葉死人の帰る部屋を掃く」と、いかにも飯島さんらしい気丈な作風の一面を見せているが、死別後一年以上を過ぎた「鯛焼」の季節になって、いじらしいほどに気弱くなったようだ。新婚時代の、たぶん貧乏だった生活を思い出している。したがって、句の「われ」は作者ではない。「君」のほうが作者でなのあって、「われ」であった夫の優しさをさりげなく詠んでいるのだ。ところで、こうした説明がないと味わえない句は「よい作品ではない」とお考えの読者もおられるだろう。テキストがすべてのはずだ、と。お気持ちは、わかります。でも逆に、私はここに俳句のよさを認めたい気がしています。作者には、誰にだって個人的な事情があり、そのなかでの創作ですから、なるべくテキストだけでわかるように書きたいのはヤマヤマなれど、たまにはこんなふうに書きたくなる事情も発生する。その事情を殺して書くことも可能かもしれないが、揚句で言うと、わかる人だけにわかってもらえば「それでよし」としたほうが、より人間的な営みとなる。だから作者はきっと、この句を平凡なアツアツ句と読まれても、いっこうに構わないと思っていただろう。人には事情がある。俳句は、そのことを常に意識してきた文芸だ。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)




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