January 2212001

 お辞儀してマフラー垂れて地上かな

                           池田澄子

々とお辞儀をした拍子に、マフラーが垂れてしまった。ここまではよくあることだし、ここまででも一句できそうだ。が、作者は粘り腰。マフラーの先の「地上」を詠んだ。マフラーが垂れたことによって、お辞儀をした相手から一瞬ふっと意識がそれたのだ。ほんの短い時間だが、「ああ、ここは地上なのだ」と、妙に得心がいったのである。お辞儀という生真面目な仕草の途中だけに、なんとなく可笑しい。私たちの意識は連続しているようで、そうでもないらしい。時折、このようにぷつっと切れる。あるいは、落ちる。その切れや落ちを補うのが、身体にしみついた習慣であり動作であるだろう。そのおかげで、社会的対人的な交通がスムーズになる。礼儀作法は、そのための必須行為として発明され育てられてきた。だから、社会的に未成熟な子供らの集団では、こうはいかない。保育園や幼稚園の混乱は、たいていが「地上」に目が行きっぱなしになることから起きるのではあるまいか。ここでお辞儀の相手は、まさか作者が「地上」を発見して納得しているとは露ほども思わない。だから、余計にユーモラスに感じられる。ユーモラスではあるけれど、しかし、句は人間の本当のありようを的確にとらえている。ユーモアの核心は、いつだって「本当」に触れていなければならない。俳句は多く日常茶飯事をモチーフとするが、粘り腰で日常をつかめば、まだまだ詠む材料には事欠かない。そのサンプルが、揚句というわけである。「俳壇」(2001年2月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます