January 1712001

 味噌汁におとすいやしさ寒卵

                           草間時彦

嘲だろう。他人の「いやしさ」を言ったのでは、それこそ句が卑しくなる。句品が落ちる。おそらくは、旅館での朝餉である。生卵はつきものだけれど、作者はそんなに好きではないのだろう。飯にかけて食べる気などは、さらさらない。かといって、残すのももったいない。というよりも、この卵も宿泊費の一部だと思うと、食べないのが癪なのだ。そこで生の状態を避けるべく、味噌汁に割って落とした。途端に、なんたる貧乏人根性かと、なんだか自分の「いやしさ」そのものを落としたような気がした……。食べる前から、後味の悪いことよ。鶏卵は、寒の内がもっとも安価だ。それを知っていての、作者の自嘲なのである。鶏の産卵期にあたるからで、昔から栄養補給のためには、庶民にとってありがたい食材だった。だから、盛んに食べてきた。栄養を全部吸い取れるようにと、生のままで飲むことが多かった。したがって俳句で「寒卵」と特別視するのは、べつに寒卵の姿に特別な情緒などがあるからではなく、多く用いられるという実用面からの発想だ。ところで、私の「いやしさ」は酒席で出る。お開きになって立ち上がりながら、未練がましくも、グラスに残っているビールをちょっとだけ飲まずにはいられない。『朝粥』(1979)所収。(清水哲男)

[紹介]上記をアップしてすぐに、当方の掲示板に次のような感想が寄せられました。「歳時記に『寒の卵は栄養分に富み・・・』とあるのを読みました。ですので、なんだか壮年を過ぎようとする男の人のあらがいと、戦中戦後の卵が貴重だった時代を経てきた己が身とをまとめて、習い性を、ちょっと露悪的に『いやしさ』と言ってみたような句の気がしました」(とびお)。考えてみて、とびおさんの解釈のほうが自然だと思いました。私のは牽強付会に過ぎますね。ま、自戒記念にそのままにしてはおきますが(苦笑)。とびおさん、ありがとうございました。




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