January 1112001

 目隠しの闇に母ゐる福笑ひ

                           丹沢亜郎

集には、つづけて「ストーブの油こくんと母はなし」とあるから、亡き母を偲ぶ句だ。「福笑ひ」は、目隠しをしてお多福の面の輪郭だけが描かれた紙の上に、目鼻や口などの部品を置いていく正月の遊び。珍妙な顔に仕上がるほうが喜ばれる。最近は、さっぱり見かけなくなった。ほんの戯れ事ながら、お多福は女性なので、作者は「目隠しの闇」のなかで不意に母の面影を思い出したのだろう。となれば、珍妙に仕上げるどころか、逆にちゃんとした顔を作りたいと真剣になっている。そんな作者の気持ちはわからないから、周囲ははやし立てる。ストーブの句でもそうだが、死しても「母」は、いつでもどこからでも子供の前に立ち現れるのだ。句はさておいて、私はこの遊びが好きではなかった。変な顔、珍妙な顔を笑うということがイヤだったからだ。博愛主義者でもなんでもないけれど、人並みではないからといって、それを笑いの対象にする心根が嫌いだった。いまでも身体的なことにかぎらず、そういう笑いは嫌いだ。だから、珍妙な顔をしてみせて笑いをとる芸人も大嫌いで、テレビを見て最初に嫌いになったのは柳家金語楼という落語家だった。自虐的だからよい、というものではない。この自虐は、他人の欠陥を笑うという下卑た感覚におもねっているから駄目なのである。ましてや、いまどきのテレビにやたら髭などを描いて出てくるお笑いるタレントどもは、最低だ。あさましい。みずからの芸無しを天下に告白しているようなもので、見てはいられない。『盲人シネマ』(1997)所収。(清水哲男)




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