December 31122000

 今思へば皆遠火事のごとくなり

                           能村登四郎

語は「火事」で冬。本年の掉尾を飾る句にしては寂し過ぎるが、あえて選んだ。といって、いまの私が作者の心境に至っているわけではない。新年早々に辻征夫と別れ、師走に加藤温子と別れた。仲良しの詩の仲間を、一挙に二人も奪われた。それもまだ十分に若い命を、だ。めったに泣かない私が、ひとりかくれて声を押し殺して泣いた。「ばかやろう」と大声で叫びたい気持ちだった。だから「遠火事」どころではなく、まだ心にはぶすぶすとくすぶるものがある。まだ、生々しい体験として生きている。揚句がそんな私に寂しいのは、やがていつの日か、今年起きたことも、おそらくは「遠火事」のように思い出されることになるだろうからだ。作者は、このときに七十代の後半である。よほどの体験でも、時の経つにつれて実感が失われていく。どうにもならぬ、人の常だ。戦地で地獄を見てきた人すらも、どこか「遠火事」のように語るようになってきた。私にしても、たとえば戦後の飢えの体験などは、どちらかといえば「遠火事」に近くなってきたろうか。あれほど苦しかったのに、たまのご馳走であった一個の生卵を弟と分ける際にいつも喧嘩になったのに、そういうことも忘れかけている。ひるがえって作者の心境に思いを馳せると、私などよりも、もっともっと寂しいだろうと思う。体験した喜怒哀楽の何もかもが「遠火事」のようにしか浮かんでこない心には、ただ荒涼たる風が吹きすぎているのみだろうからである。今年も暮れる。来る年が、みなさまにとってよい年でありますように。『菊塵』(1988)所収。(清水哲男)




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