December 17122000

 炭の塵きらきら上がる炭を挽く

                           川崎展宏

く晴れた日。のこぎりで炭を挽いている。「塵(ちり)」が「きらきら」と舞い上がっている。挽く音までが聞こえてくるようだし、炭の匂いも漂ってくるようだ。言いえて妙。ただ一般論になるが、この光景を美しいと思うかどうかは、読者の立場によるだろう。夏場に氷を配達する人が、道端で氷を挽いているのと同じこと。通りかかった人には、とても涼しげな情景に写るのだけれど、挽いている当人にしてみれば、それどころではない。とてもじゃないが「やってらんねえ」のである。他意はないけれど、労働の現場を詠んだ句には、傍観者の立場からのそれが多い。それはそれでよいとして、詠まれる側からすると、もう少し何とかならないのかなと歯がゆい思いが残ることもある。いつもながらの思い出話になるが、昔の我が家でも炭を焼いていた。自給自足ゆえの、やむを得ぬ所業だった。子供でも、炭を挽いて炭俵につめることくらいはできる。「塵」を浴びながら挽いていると、身体中がこそばゆくなり、もちろん手や顔などは真っ黒になってしまう。べつに苦しい仕事ではないのだが、炭の粉を吸いすぎた胸は、妙に息苦しい感じになった。そんな体験のある子供や大人が、この句を読む。もちろん、感想はまちまちだろう。その「まちまち」のなかで、一点共通するのは、作者が炭を挽く現場の人ではないなという「直感」だ。それはそれで作者には関わり知らぬことながら、働く現場を詠むのが難しいのは、確かなことである。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)




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