December 13122000

 業の鳥罠を巡るや村時雨

                           小林一茶

こここに「罠」が仕掛けられていることは、十二分に承知している。しかし、わかりつつも、吸い寄せられるように「罠を巡る」のが「業」というもの。巡っているうちに、いつか必ず罠にかかるのだ。大昔のインド宗教の言った「因果」のなせるところで、なまじの小賢しい知恵などでは、どうにもならない。なるようにしかならぬ。折りからの「時雨」が、侘びしくも「業」の果てを告げているようではないか。前書に「盗人おのが古郷に隠れ縛られしに」とある。したがって、この「鳥」は悪事を重ねた盗人に重ねられている。逃亡先に事欠いて、顔見知りのいる「古郷に隠れ」るなどは愚の骨頂だが、それが「業」なのだ。現代でも、郷里にたちまわって「縛られ」る者は、いくらでもいる。作句のときの一茶は「古郷」に舞い戻っており、わずか四百日の命で逝った娘のサトをあきらめきれずに、悲嘆のどん底にあった。だから、掲句では盗人が「鳥」というよりも、本当はおのれが「業の鳥」なのだ。おのれの「業」の深さが可愛いサトの命を奪い、因果で自分も「業」に沈むことになった。そういうことを、言っている。だが、このような後段の事情を知らなくても、掲句は十分に理解できるだろう。また「業」という考え方に共鳴できなくても、句が発するただならぬ気配に、ひとりでに吸い寄せられてしまう読者も多いだろう。一茶にも、このような句があった。(清水哲男)




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