December 08122000

 峠に見冬の日返しゐし壁ぞ

                           深見けん二

味だけれど、不思議な印象を与えてくれる句だ。季語「冬の日」は冬の一日の意でも使うが、冬の太陽を指す場合が多い。峠を越えて、作者は山里に下りてきた。土蔵だろうか。白い壁の建物の前を通りかかって、はっと気がついた。ああ、「あれ」は「これ」だったのか。きっと、そうにちがいない。「これ」は眼前の白壁で、「あれ」は峠から遠望した建物の白壁である。峠から見た山里の風景は寒々としていたが、なかで弱々しい太陽の光りを反射させている小さな「壁」だけが、健気にも元気な感じで一瞬目に焼きつけられた。もちろん、歩いているうちに、そんなことは失念してしまっていたのだが、いま「壁」の傍らを通りかかって、不意に思い出したというわけである。カメラなら、峠からすっと簡単にズームアップできるるところを、人は時間をかけなければ果たせない。その時間性が詠まれているので、まずは不思議な印象を受けるのだろう。どこかの場所で、そこにまつわる過去を思い出したり偲んだりする句はヤマほどある。しかし、掲句のように、過去とは言っても「つい、さきほど」の過去を思い出した句は少ない。たいていの日常的な「つい、さきほど」には、記述するに足ると思える何の意味も価値もないからだ。そのあたりは百も承知で、作者は詠んでいる。そこがまた不思議な味わいにつながっており、私などには「ああ、これがプロの腕前なんだなあ」と感心させられてしまう。単に「あれ」が「これ」だったのだと言っているにすぎないが、なんだか読者もいっしょに嬉しく思える句の不思議。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)




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