December 07122000

 考へず読まず見ず炬燵に土不踏

                           伊藤松風

五中七までは、どうということもない。また老人の境涯句のようなものかと読み下してきて、下五でぴりっとしっぺ返しをくった。「考へず読まず見ず」は作者の意志によるものだが、「土不踏(つちふまず)」だけは意志の及ばないところだ。生まれたときから(正確に言えば歩きはじめてから)、土を踏まないようにできている。かたくなに「考へず読まず見ず」などと思い決めても、「土不踏」の長年の頑固にはとてもかなわんなあと、作者は気がつき、苦笑している。前段がどうということもないだけに、炬燵に隠れた「土不踏」がひょっこり登場したことで、笑いと軽みが飛び出してきた。軽妙にして洒脱。思わずも、シャッポを脱ぎました。同じ作者に「どこまでが鬱どこまでが騒雪霏々と」がある。「霏々」は「ひひ」。これまた「鬱」に対して「躁」ではなく、さりげなく「騒」と配したあたりが卓抜だ。たしかに「躁」は「騒」にちがいない。と、ここまでは種明かしをせずに紹介してきたが、実はこれらの句は、自分のことを詠んだのではない。連作の模様から想像するに、主人公は病身の妻である。「ひひ」の音感に、作者の戦きをいくばくか感じられた読者もおられるだろうが、そういうことのようだ。そこで、もう一度掲句に帰ってみると、にわかに滑稽の色は薄れ、作者の悲しみの念が色濃くなる。しかし、この悲しみの思いも作者の軽妙洒脱な手つきが呼び寄せるのであって、事情を知る知らずに関わらず、句の自立にゆらぎはないだろう。悲しみと滑稽は、ときに隣り同士になる。『現代俳句年鑑2001』(2000・現代俳句協会)所載。(清水哲男)




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