December 03122000

 寒風や砂を流るる砂の紋

                           石田勝彦

影もない冬の砂丘だ。寒風が吹き荒れて、表面にできた紋様が次から次へと消されては、また現われる。その様子を「砂を流るる砂の紋」と動的に言い当てたデッサン力には、お見事と言うしかない。句のなかで、風紋はしばしも休まずに千変万化し、永遠に流れつづけるのである。美しくも荒涼たる世界の永遠性を描いて、完璧だ。こういう句を突きだされると、グウの音も出ない。「まいった」と言うしかない。俳句文芸の一到達点を示す作品だろう。……と絶賛しつつも、一方で私などには不満に思うところもある。不満ではなくて、不安と言うほうが適当かもしれない。もしかしたら、このあたりが俳句の限界かもしれないと思えるからだ。俳句の壁は、ここらへんに立ちはだかっているのではないのかと。「それを言っちゃあオシマイよ」みたいな印象が、どうしても残ってしまう。そんな印象を受けるのは、掲句に作者の息遣いもなければ、影もないからだろう。句の主体は、まるで句そのものであるかのようだ。もっと言えば、この句の主体は空無ではないのか。私の理想とする俳句主体は、「個に発して個にとどまらず、個にとどまらずして再び個に帰る」という平凡なところにあるので、空無的主体は理想から外れてくる。そこに「人間」がいてくれないと、不安になり不満を覚える。このときに作者が、「砂の紋」を「砂」と「砂」とを重ねる技巧から脱して、たとえば「風の紋」と野暮を承知で詠んだとすれば、たちまち作者の息遣いが聞こえてこないだろうか。人が登場するのではないか。舌足らずになったが、いま、なんとなくこんなことを考えながら、俳句を楽しんでいるので……。『秋興』(1999)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます