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December 02122000

 咳の子のなぞなぞあそびきりもなや

                           中村汀女

しそうに咳をしながらも、いつまでも「なぞなぞあそび」に興ずる子ども。気づかう母親は「もうそろそろ寝なさい」と言うが、意に介さず「きりも」なく「あそび」をつづけたがる。つきあう母としては心配でもあり、たいがいうんざりでもある。私は小児喘息だった(死にかけたことがあるそうだ)ので、少しは覚えがある。「ぜーぜー」と粗い息を吐きながら、母にあれこれと他愛のない「問題」を出しては困らせた。しかし、咳でもそうだけれど、喘息の粗い息も、何かに熱中してしまうと、傍目で見るほど苦しくは感じられないものだ。慣れのせいだろう。が、もう一つには、子どもには明日のことなど考えなくてもよいという特権がある。だから、いくら咳が出ても、精神的な負担にはならない。いよいよ苦しくなれば、ぺたんと寝てしまえばよいのである。同じ作者に「風邪薬服して明日をたのみけり」があり、このように大人は「明日を」たのまなければならない。この差は、大きい。「なぞなぞ」といえば、小学生のときに「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。なあんだ?」と、友だちに聞かれた。答えは「人間の一生」というものだったが、そうすると、いまの私は夕方くらいか。夕方くらいだと、まだ「明日を」たのむ気持ちも残っている。羨ましいなあ、ちっちゃな子は。「咳」「風邪」ともに、冬の季語。読者諸兄姉におかれましては、お風邪など召しませんように。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


November 12112001

 女人咳きわれ咳きつれてゆかりなし

                           下村槐太

語は「咳(せき)」で冬。待合室だとか教室だとか、人中では咳をしたくとも、なるべくこらえるのがマナーだろう。作者もそう心得てこらえていたのだが、ちょっと離れたところで、こらえきれなくなったのか、女性が咳をした。とたんに、作者も「つれて(連れて)」咳をしてしまったというのである。私にも、経験がある。同病あい哀れむ。というほどのことでもないけれど、こんなときには、咳をした者同士の間に、すっと親近感がわくものだ。作者の場合は、お互いに目くらいは合わせたかもしれない。しかし、それも束の間で、またお互いはそっぽを向くことになる。「ゆかりなし」だからだ。一瞬の親近感がパッと引いてしまう微妙な交流の機微を描いて、的確だ。「ゆかりなし」と、当たり前のことを内心で大声で言っているのも面白い。咳の後での、腕組みをして憮然とした作者の表情が目に浮かぶようで、滑稽感もある。これはもちろん「女人咳き」だから成立する句なのであって、相手がおっさんでは句にならない。きっと、美人の咳だったんだろうな。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 19112003

 痩身の少女鼓のやうに咳く

                           福田甲子雄

語は「咳(せ)く・咳」で冬。冬は風邪(これも冬季)を引きやすく、咳をする人が多いことから。咳の形容にはいろいろあるが、「鼓(つづみ)のやうに」とは初めて聞く。聞いた途端に、作者は素朴にそう感じたのだろう。頭の中でこねくりまわしたのでは、こういった措辞は出てくるものではない。さもありなんと思えた。「鼓」といっても、むろん小鼓のほうだ。痩せた少女が、いかにも苦しげに咳をしている。大人の咳は、周囲への遠慮もあって抑え気味に発せられるが、まだ小さい女の子はあたりはばかることなく全身を使って咳き込んでいる。すなわち、大人の咳は身体にくぐもって内側に向けられた感じが残るけれど、少女のそれはすべて外側に宙空にと飛び出してゆく。それは小さな鼓を打った音が思わぬ甲高さで発せられるようだ、というのである。作者は可哀想にと思う一方で、痩せっぽちの少女の全身のエネルギーの強さにびっくりもしている。なるほどと納得できた。さらに言えば深読みかもしれないが、鼓の比喩はことさらに突飛なわけではない。鼓と咳とのありようは、とてもよく似ているからだ。ご存知だろうか。舞台などでは見えないけれど、小鼓の打たないほうの革には水に濡らした小さな和紙が貼り付けてある。調子紙(ちょうしがみ)という。あの革は乾きやすく、常に湿らせておかないと良い音が出ない。放っておけばだんだん乾いた鈍い音になってくるので、演奏中にも息を吹きかけたり唾で濡らして水分を補給しているのだ。咳も同じこと。咳き込んでいるうちに、音が乾いてきてますます苦しげに聞こえる。いや、当人は実際に苦しくなって水分をとりたくなる。ここまで読むとすると、まことに「鼓のやうに」がしっくりとしてくる。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)


September 2992006

 月夜の葦が折れとる

                           尾崎放哉

取市立川町一丁目八十三番地に、僕は五歳から十二歳まで七年間住んだ。狭い露地に並んだ長屋の一角が僕の家。その露地を東に五十メートル進んで突き当たると右手、八十番地に放哉の生家があり、そこに「咳をしても一人」の句碑が立っていた。途中に古い醤油の醸造元があり、土壁の大きな醤油蔵があった。いつも露地には醤油の匂いが漂っていた。放哉もこの醤油の匂いを嗅いで育ち、ここから鳥取一中(現鳥取西高)に通った。我が家はその後米子に移り僕は米子の高校に通うことになったが、そこの図書館にも放哉関係の本はあり、すでに俳句を始めていた僕はその奇妙な俳句に驚いた記憶がある。放哉は、当時は地元の一奇人俳人にすぎなかった。自由律俳句は河東碧梧桐、中塚一碧楼、荻原井泉水らが積極的に実践。季語、定型にとらわれない自由な詩型をとることを標榜した。そのため自由律俳句の傾向は当初それぞれの俳人の個性や価値観によって多彩な文体を示したが、放哉以降の自由律俳句は、たとえば山頭火も、放哉の文体と情趣を模倣したかに見える。異論はあろうが。「折れとる」は鳥取方言。「折れとるがな」「折れとるで」などと用いる。破滅、流浪の身として、パスカルの「人間は考える葦である」に照らしての、「折れた」自己に向けるシニカルな目もあったか。『大空』(1926)所収。(今井 聖)


March 1132009

 春の雪誰かに電話したくなり

                           桂 米朝

球温暖化のせいで、雪国だというのに雪が少なくてスキー場が困ったりしている。春を思わせる暖かい日があるかと思えば、一晩に一挙に30センチ以上も降ったりすることが、近年珍しくない。私の記憶では、東京では冬よりもむしろ三月に雪が降ることが少なくなかった。季節はずれに雪が降ったりすると、なぜかしら親しい友人につい電話して、雪のことにとどまらず、あれこれの近況を語り合ったりしたくなる。電話口で身を縮めながらも、「今ごろになってよう降るやないか。昼席がハネたら雪見酒としゃれようか」とでも話しているのかもしれない。もっとも雪国でないかぎり、昼席がハネる頃には雪はすっかりあがっているかもしれない。雪は口実、お目当ては酒。春の雪は悪くはない。顔をしかめる人は少ないだろう。むしろ人恋しい気持ちにさせ、ご機嫌を伺いたいような気持ちにさせてくれるところがある。米朝は八十八の俳号で、東京やなぎ句会の一員。言うまでもなく、上方落語の第一人者で人間国宝。息子の小米朝が、昨年10月に五代目桂米団治を襲名した。四代目は米朝の師匠だった。米朝が俳句に興味をもったのは小学生の時からで、のち蕪村や一茶を読みふけり、「ホトトギス」や「俳句研究」を読んだという勉強家。「咳一つしても明治の人であり」「少しづつ場所移りゆく猫の恋」などがある。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


November 27112009

 出雲発最終便の咳の人

                           鈴木鷹夫

間では神無月が出雲では神在月。旧暦十月十一日から十七日まで出雲で開かれる会議に出席された神々は十八日に「神等去出」(からさで)祭に送られて元の国々にお帰りになる。咳をしている最終便の人はひょっとしたら最後に帰る神さまかもしれない。「出雲」という地名がどういう効果をもたらすか、作者は十分に計算し尽くして用いている。詩人としての才を感じさせるのはこういうところだ。「俳句研究年鑑」(2003)所載。(今井 聖)


February 0922011

 咳こんでいいたいことのあふれけり

                           成田三樹夫

ヒルな個性派で、悪役スターとして人気を呼んだ三樹夫は一九九〇年に亡くなったけれど、私などにとっては今もなお忘れられない役者だ。それほど強烈な存在感があった。彼は意外や俳句を四百句も残したという。寡黙な悪役という印象が強いけれども、そういう男がクールな表情で、咳こんでいるという図は屈折している。無駄言を吐かない寡黙な人が咳こんだときにはいっそう、「いいたいこと」のありったけが咳と一緒にこみあげ、あふれてくるにちがいない。でも、その「いいたいこと」をべらべらならべたてることができない。そのことが辛さを強く語っているように思われる。この句が病床での句だったことを知ると、「いいたいこと」がいっそう切実に思われる。川端茅舎に「咳き込めば我火の玉のごとくなり」がある。刑務所長だった三樹夫の父は、俳句雑誌や世界戯曲全集などを揃えていた人だったらしい。三樹夫はチェーホフやストリンドベリなどが好きだったとか。酒と将棋が好きだったというのはわかるけれども、詩作を愛するシャイな男であり、家庭的な人だったというのは意外。あるインタヴューで「ガツガツしないでワキのほうがイイです」と語っていた。他に「冬木立真白き病気ぶらさがっている」という病中吟もある。『鯨の目』(1991)所収。(八木忠栄)


November 13112011

 咳をしても一人

                           尾崎放哉

時記を読んでいて、どうしても立ち止まってしまうのが自由律の句です。冬の歳時記の「咳」の項を読んでいたら、有名なこの句に出くわしました。「咳をする」も「一人」も、寂しくつらいことを表す語彙の内に入ります。つまり両方とも同じ感情の向きです。でも、幾度読んでみても、この句には統一した流れを感じることができません。その原因はもちろん「も」が中ほどで句を深く折り曲げているからです。普通に読むなら、「咳をしてもだれも看病してくれない。わたしは一人きりでただ苦しみながら止まらぬ咳に苦しんでいる」ということなのでしょうが、どうもこの「も」は、もっと癖のある使い方のように感じられます。「一人」へ落ち込んで行く危険な曲がり角のような…、そんな感じがするのです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


December 10122014

 咳こんで胸をたたけば冬の音

                           辻 征夫

咳」と「冬」で季重なりだが、まあ、今はそんなことはご容赦ねがいましょう。咳こんだら、下五はやはり「冬の音」で受けたい。「春の音」や「夏の音」では断じてない。私はすぐ作者の姿をイメージしてしまうのだが、イメージしなくとも、咳こんでたたく胸は痩せた胸でありたい。肥えた胸をドンドンとたたいても、冬のさむざむとした音にはならないばかりか、妙に頼もしくも間抜けたものに感じられてしまう。では、いったい「冬の音」とはどんな音なのか、ムキになって問うてみてもはじまらない。鑑賞する人がてんでに「冬の音」を想像すればいいのだ。掲出句は征夫がまだ元気なころの作ではないかと思われる。コホンコホンと軽い咳ならともかく、風邪であれ気管支の病気であれ、それによって起こる止まらない咳は苦しいものであり、思わず胸をたたかずにはいられない。とても「しわぶき」などとシャレている場合ではない。征夫には他に「わが胸に灯(ともしび)いれよそぞろ寒」という句もある。川端茅舎の句には「咳き込めば我火の玉のごとくなり」がある。そんなこともあります。『貨物船句集』(2001)所収。(八木忠栄)


May 0652015

 矢車の音に角力の初日かな

                           桂 米朝

の児の成長を願う鯉のぼりが、四月のうちから青空に高く泳いでいる、そんな光景がまず見えてくる。大相撲とちがって「角力」と書く場合は「草相撲」を意味するのが一般的だから、鯉のぼりの竿の先でカラカラと風にまわっている矢車の音があたりに聞こえ、同時に力強い鯉のぼりも眺望できる場所で角力大会の初日を迎えた。今や懐かしい風景であり、晴れ晴れしい。すがすがしい風に矢車の音が鳴って、地域の角力に対する期待があり、観戦の歓声も聞こえているのかも知れない。いや、「角力」を「大相撲」と解釈して、その初日へ向かう道中でとらえられた「矢車の音」としてもかまわないだろう。本年三月に亡くなった米朝は上方の人だが、大阪場所は例年三月の開催。季語「矢車」は夏だから、時季は大阪場所では具合が悪く、両国国技館での五月場所のほうが整合性がある。ちなみに、今年の五月場所の初日は四日後の5月10日である。楽しみだ。米朝は小学生の頃から俳句に興味を持ち、旧制中学では芭蕉、蕪村、一茶などを読みふけり、「ホトトギス」や「俳句研究」までも読んでいたという。掲出句は《自選三十句》中の一句であり、他に「咳一つしても明治の人であり」がある。『桂米朝集成』第4巻(2005)所収。(八木忠栄)


February 0322016

 巡業や咳をおさへて踏む舞台

                           寿々木米若

の人の名を知る人は減ってきているだろう(1979死去)。戦前から戦後の浪曲界のトップに輝きつづけた浪曲師である。その人気は広沢虎造を凌いでいた。長年、浪曲協会会長をつとめた。十八番とした自作の「佐渡情話」(LP盤で大ヒット)に、私は子どものころからいろんな機会に接してきた。吾作とお光の悲恋物語に、娯楽の少なかった往時の人たちは、ただただ心を濡らしていた。♪寄せては返す波の音 立つは鴎か群れ千鳥 浜の小岩にたたずむは若い男女の語り合い……小学生に「若い男女の語り合い」も「悲恋」も、理解できようはずはなかったが、親たちと一緒になって聴くともなく聴いていた(今も古いテープで時々聴いている)。♪佐渡へ佐渡へと草木もなびく……の「佐渡へ」を「佐渡い」と発音しているのは、明らかな越後訛りだった。それと「あ、あ、あん」「あ、あ、あ、あん」という独特な節回しが、今も耳に残っている。戦後、浪曲師たちが日本各地を巡業してあるいた時期があった。おそらくその時期だったと思われるが、子どものころ、わが家を会場にして興行が打たれたことをはっきり憶えている。記憶にまちがいがなければ、売れっ子の木村友衛、東家浦太郎、春日井梅鶯、他の面々。米若はいなかった。浪曲独特のうなりは特にのどを酷使するから、咳きこむこともあるのだろう。それをおさえての巡業舞台である。米若は俳句を高浜虚子に師事した。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)




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