November 21112000

 着膨れて児に唱合はす三十路はや

                           木附沢麦青

う、こんなトシになったのか。ときどき、そう感じることがあり、愕然とすることもある。きっかけは、人さまざまだろう。作者の「児」は、まだ幼い。口もよくまわらぬままに、歌いはじめた。そこで父親である作者は、できるだけ子供の歌いぶりをそこねないようにしながら、「唱」を「合は」せている。「咲いた、咲いた」が「タイタ、タイタ」なら、やはり「タイタ、タイタ」と合わせるのだ。父と子の関係だけで言えば、何でもない日常の一齣でしかない。が、ここでふと作者が気づいたのは、寒さに「着膨れ(きぶくれ)て」いる自分の姿だった。そこに、それこそ愕然としている。若いころには、こんな寒さなんぞへっちゃらだったのに……。そういえばと思いが沈んで、すなわち「三十路はや」との感慨を得たわけだ。何を言ってるんだい、まだ若いじゃないか。三十路を過ぎた人たちなら、たいがいそう思うだろう。つられて、私も言いたくなる。が、冷静にこの年代に対すれば、現代の三十代は生活の激変する年代に当たっている。否応なく世の中と向き合わねばならないし、そのための対応処置の量たるや、未経験であるがゆえに大変なものがある。漠然とにもせよ、「着膨れ」の作者はそういうことにも思いがいたって、素直に「三十路はや」とつぶやいたのである。同時に、ここでこうして幼子につきあっている自分は、つい昨日まで想像もしていなかった自分だということもある。つい昨日までの若き日が、なんだか夢まぼろしのようにすら思えてくる……。その意味からしても「三十路はや」は、決して大げさな表現ではないだろう。角川俳句賞「陸奥の冬」(1966年度)より。(清水哲男)




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