November 20112000

 わだかまるものを投げ込む焚火かな

                           小倉涌史

とより「わだかまるもの」とは、精神的、心理的な「わだかまり」だ。それを「もの」に託して、えいやっと思い決め、火の中に「投げ込む」。遊びでの焚火は別にして、焚火で燃やす「もの」を思い決めるのには、けっこう決断力を要する。あらかじめ燃やすと決めておいたものはすんなりと燃やせるが、火が盛んになってくるうちに、もっと燃やしてもよいものがあるかもしれないと、そこらへんを探しはじめたりする。焚火は身辺整理の技術、すなわち捨てる技術の問題に関わってくるので、相応の決断を強いられる作業だ。もう二度と使わないかもしれない道具や、二度と読みそうもない雑誌や本の類があることはあるのだけれど、火に投じてしまえばおしまいだから、かなり逡巡躊躇することになる。そのことで一瞬、それこそ心に別種の「わだかまり」が生まれてしまう。だから、ここで作者が「わだかまるもの」と言っているのは、精神的心理的なそれであることに違いはないが、同時に燃やすべきか否かの「もの」それ自体への執着を振り捨てるかどうかということなのだ。前もって燃やすと決めておいた「もの」には、「わだかまるもの」など乗り移らない。この「もの」という言葉の重層性を感じて、はじめて掲句は理解できるのだと思う。余禄として書いておけば、作句時の小倉涌史は膵臓癌のために、余命いくばくもないと承知していた。このときに、作者がえいやっと火に投げ込んだ「もの」とは何だったのだろう。心の「わだかまり」は切ないので知りたくないけれど、火に投じられた「もの」については知りたいと思う。以前にも書いたが、彼は当ページの最初からの読者であり協力者であった。小倉さん、また焚火の季節がめぐってきましたよ。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)




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