October 24102000

 懸崖に菊見るといふ遠さあり

                           後藤夜半

ろそろ菊花展のシーズンだ。昨秋は、神代植物園(東京・調布)に見に行った。ああいうところに、花の盛りを揃えて出展する人は、さぞや神経を使うのだろう。花を見ていると、そんなことが思われて、ただ見事だなというだけではすまない。花の真横に、育てた人が心配げに立っているような雰囲気がある。生花ではあるが、造花なのだ。「懸崖(けんがい)」は「幹または茎が根よりも低く垂れ下がるように作った盆栽[広辞苑第五版]」。たしかに懸崖の菊を見るには、ある程度の「遠さ」が必要となる。近くでは、全体像をつかめない。敷衍すれば、何かを見るときには見るための「遠さ」が必要ということであり、これは菊花のような実像だけではなく、虚像においても幻像においても同様だろう。当たり前と言えば当たり前。だが、この当たり前に感じ入る心は、俳句という装置の生みだしたものだ。俳句でなければ、この「遠さ」に着目するチャンスはなかなかないだろう。三島由紀夫の小説の叙景には「遠近感」がない。その位置からは遠くて見えないはずの景色のディテールを、目の前で見ているように書く。そう言ったのは磯田光一だったと記憶するが、小説家には案外遠近の意識は薄いのかもしれない。だとすれば、小説という装置がそうさせるのだと思う。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




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