October 13102000

 影踏みは男女の遊び神無月

                           坪内稔典

ッと句から平仮名を抜いて、漢字だけを集めてみる。すると「影踏男女遊神無月」と、なにやら意味あり気な「漢詩」の一行ができあがる(笑)。「影ハ男ヲ踏ミ、女ハ神ニ遊ブ、ムゲツケナシ(「残忍なことだ」の意)」と。もちろん、これは私の悪い冗談である。稔典さんよ、許してつかぁさいね。でも、漢字は表意文字だからして、漢字の多い句に出会うと、観賞が漢字に引きずられてしまうことは、よくある。掲句はきちんと書いてあるからそういうことは起きないが、初心の実作者はよほど注意をしないと、とんでもない解釈をされることもあるので、要注意だろう。閑話休題。この句の面白さは、なんといっても「影踏み」を「男女の遊び」だと独断したところにある。普通は、男女に無関係の子供の遊びだ。誰も「男女の遊び」だとは思ってもみないが、こうして独断することで見えてくるものはある。何かと男女交際に口うるさい神様は、会議で出雲にお出かけだ。その隙をねらって「男女」が遊んでいるわけだが、思いきり遊べばよいものを、なんとお互いの影を踏みあうことくらいしかできない哀れさよ。「影踏み」なんて日のあるうちにするもので、しかも「神無月」の日照時間は短いのである。お楽しみはこれからなのに、なんて遊びにかまけているのか。作者はべつに警句を吐いたのではない。ただ、庶民の遊びの貧しさをからかい、そこにまた庶民のつつましさを見て、苦笑とともに共感を寄せている。このときに庶民とは、まずもって作者自身のことなのだ。だから、この句にはナンセンスの妙味もあるけれど、同時に苦くて寂しいユーモアが感じられる。「影踏み」か……。最後に遊んだのは、いつ誰とだったか。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)




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