October 12102000

 母追うて走る子供の手に通草

                           橋本鶏二

々をこねて、叱られたのだろう。「そんな悪い子は、もう知りません」と、母親はどんどん先に歩いていく。すると、先ほどの駄々はどこへやら、泣きながら必死に母を追うことになった。誰にでも、子供のころに一度や二度は覚えがあるだろう。作者にも覚えがあって、微笑しながら追いかけている子供を見やっている。そしてふと、子供の手にしっかりと通草(あけび)が握られていることに気がついた。大人の必死であれば、そんなものは捨ててしまって走るところだ。子供にしてみれば、母親も大事だが、食べたい通草も大事。やっぱり、子供は子供なんだ。可愛いもんだ。と、そんな含みも多少はあるのだろうが、もう少し掲句は深いと思う。子供の持つ通草は、母親が獲ってくれたものだとすれば、子供の手にあるのは母親の「慈愛」がもたらしたものだ。子供は母の「慈愛」を手放さずに、母を追いかけているわけだ。どうして、これが投げ捨てられようか。と、実際の子供の意識はいざ知らず、作者はそこに注目したのである。いい子だ。早くお母さんに追いつけよと、心のなかで励ましている。すなわち掲句は、何気ない日常の光景に取材した「母子讃歌」であった。最近、読者のSさんから、この秋の通草は実入りが悪いとメールをいただいた。失礼ながら、本稿を返信の代わりとさせてください。それにしても、もう何年も通草を口にしていない。売ってはいるが、買いたくない。通草は、山で獲るものサ。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)




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