September 2992000

 店の柿減らず老母へ買ひたるに

                           永田耕衣

物なのだろう。母に食べてもらおうと、柿を求めた。老母のためだから、数はそんなに必要はないのだが、ちょっと多めに買った。いくつかは無駄になるとしても、母に差し出すときには、はなやかに見えるほうがよい。気持ちのご馳走だ。ところが買った後で、もう一度店先の柿の実の山を見てみると、少しも減った感じがしない。自分が買ったのに、その行為の痕跡もないのだ。せっかく「母へ買ひたるに」もかかわらず、これでは子としての母への思いが通じないじゃないか。バカみたいじゃないか。と、内心で深く作者は落胆している。この句は、我々の「プレゼント欲」の本質を突いている。老母へのプレゼントに下心などあるはずもないが、しかし、単純に喜んでほしいと思うのも手前勝手な「欲」には違いない。「欲」だから、できればその「欲」の成就を、あらかじめ保証してくれる何かが欲しい。このときに簡単なのは、自分が相手のために確かにある行為をしたという確かな痕跡を見ることだ。例えば、大富豪が恋人のために街中の花屋の花を買い占めてしまうのも、買い占めるときの気持ちは、自分の「欲」の成就を確信したいがためなのである。花を全部買い占めるのも柿を少し余分に買うのも、つまるところ「欲」の構造としては相似形だ。意地悪だろうか、私の読みは……。『驢啼集』(1952)所収。(清水哲男)




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