September 2792000

 リヤカーにつきゆく子等や花芒

                           星野立子

和初期の句。何を積んでひいているのだろうか。引っ越し荷物だとしても、「つきゆく子等」は、リヤカーをひく人の子供たちではないだろう。近所の子供らが、好奇心にかられて寄ってきたのだ。「花芒(はなすすき)」は、さわさわと子供らの手にある。こういう光景は、よく市井に見られた。何か珍しいものを見かけると、すぐに子供らは飛んで行った。まだ自動車が珍しかったころには、私も表に飛んで出た。近所からも、ばらばらっと出てきた。しばらく後を追っかけて、胸いっぱいにガソリンの臭いを吸い込むのであった。落語にも、町内にまわってきたイカケヤを悪ガキどもが取り囲み、そのやりとりを面白可笑しく聞かせる咄がある。昔はよかった。と、一概には言えないにしても、少なくとも昔の道端はよかった。面白かった。いまは、ちっとも面白くない。すべての道が点から点へ移動するためのメディアとして消費されており、ゆったりとした道端時間がないからだ。東京あたりでは、たまの大雪などで点と点の間を移動する機能が麻痺したときにだけ、道端時間が忽然と復活する。そんなときにだけ、私は積極的に表に飛び出す気になる。こんな道端事情だから、話は飛ぶが、いまの子供らには「路傍の石」の含意もわかるまい。最近、山本有三の文章が国語の全教科書から消えたと聞いた。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)




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