September 2492000

 邯鄲に美しき客あれば足る

                           京極杞陽

鄲(かんたん)の鳴き声は、ル、ル、ルと夢のように美しい。昨今、各地で邯鄲を聞く会が開かれるのも宜なるかな。句の言うように、加えて「美しき客」があり座敷が匂い立てば、何の不足もない。秋の夜の至福の時である。このときに「美しき客」とは、必ずしも美貌の女性でなくともよいだろう。肝胆相照らし、しかし、互いに礼節はわきまえる間柄の男であれば、やはり「美しき客」である。いずれにせよ、「美しき客」がなおいっそう美しいのは、やがては座敷から去ってしまう人だからだ。楽しき語らいが、夢のように消えてしまうからである。邯鄲の美しい鳴き声も、また消えてゆく。「足る」は寸刻。だから「足る」のであり、それでよい。中国に「邯鄲の夢(「邯鄲の枕」とも)」の故事があって、「邯鄲」の虫の名は、ここに発する。掲句もこの故事を、下敷きにしていると思われる。「[沈既済、枕中記](官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事)。 人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ」(『広辞苑』第五版)。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)




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