September 2392000

 秋涼し蹠に感ず水の張り

                           櫛原希伊子

註に、水元公園にてとある。「蹠(あうら)」は足の裏。作者は、池の畔に立っている。天気晴朗なり。ようやく新涼(「秋涼し」は「新涼」のパラフレーズ)の気が四方に充ち、心身ともに快適だ。「水の表面張力が蹠を押しているような気がした。水の中の杭と水辺の私とは涼しさで繋がれる」(自註)。眼目は「感ず」だろう。このような生まな言葉は、ふつうは俳句の外に置いておく。いちいち「感ず」では、小学生の作文じゃあるまいし、うるさくてかなわない。しかし、そんなことは百も承知で、あえて「感ず」を持ち込んだところで、句に力と幅が出た。危険な戦法だが、これで句が強く生きることになった。なぜ、この戦法がとられたのか。試みに「感ず」ではなく「蹠を押して」とでも言い換えてみると、理由がはっきりする。読者の目は「押して」に集中し、それはそれで悪くはないが、句がひどく小さくなってしまう。せっかく作者が「秋涼し」と大きく晴朗に張った構図が、どこかに行ってしまうのだ。だから「感ず」と(「感じただけ」と)、故意に「水の表面張力が蹠を押しているような気」を強調しなかった。隠し味にとどめた。「水の表面張力が蹠を押しているような気」は、作者独自の感覚だ。「なるほどね」と、読者を唸らせる発見であり手柄である。この発見と手柄にすがりつかないことで、作者は「秋涼し」を大きく歌えた。私だと、多分こうはいかない。山っ気を出して、手柄にすがりついてしまう。必然的に、句は小さくなる。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます