September 2292000

 われ小さく母死ぬ夢や螽斯

                           小倉一郎

者には申し訳ないが、季語「螽斯(きりぎりす)」の「斯」の表記には虫偏がつく。さて、俳句の「われ」は作者の「われ」であると同時に、読者の「われ」でもなければならない。主体を他者と共有するところが、この短い文学様式の一大特徴だと、長い間「オレがワタシが」の自由詩を書いてきた「私」などには感じられる。このことは、季語を通して時空間を共有することにもつながっている。俳句という表現装置の根底にあるこのメカニズムを踏み外したところに、私の関わる自由詩の存在理由もあるのだけれど、その議論はいまは置いておく。見られるように、掲句の「われ」はそのまま私たちの「われ」になっており、「螽斯」の時空間もまた、私たち読者のものである。だから、この一行は「俳句」なのだ。俳句以外のなにものでもない。と、ここまでは前提。このように主体を読者と共有したとき、なお作者の主体が掲句に感じられるのは、何故だろうか。それは、しぶとくも「夢」に内蔵されたテンスの二重性による。この「夢」は、子供の時に見た夢でもあり、現在の作者が見た「夢の夢」でもある。どちらかと問われても、誰にも答えられまい。作者は、意図的にそこを突いている。「曖昧」にではなく「正確」に、だ。こういう仕掛けができるから、俳句は面白いのである。句は優しく軟らかいのに、固い話になってしまった。小倉一郎は、テレビでもよく見かける俳優。俳号は「蒼蛙(そうあ)」。ご本人にそう言われると、なんとなく似ているような……。『小倉一郎句集「俳・俳」』(2000)所収。(清水哲男)




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