September 1392000

 木瓜の實をはなさぬ枝のか細さよ

                           後藤夜半

目は「はなさぬ」にあるのだろう。「はなさぬ」だから、木瓜(ぼけ)の枝は我とわが身の一部を「にぎっている」のである。木瓜の木を、擬人化しているわけだ。数日前にこの句を読んで、つくづくと「木瓜の實」がなっている姿をみつめることになった。近所にあるので、何度か見に行った。たしかに「か細い」枝である。直径三センチくらいの球形の実が、さながらサクランボのように、あちこちにかたまってなっている。物理的な必然から、当然に「か細い」枝はしなっている。夜半の書いたとおりだ。私は一度も、木瓜の枝など注視したことはなかったので、さすがに俳句の人は凄いもんだと感心した。でも、いくら熱心に見ても「はなさぬ」という見立てには通じなかった。この擬人化は何のためなのだろうかと、逆に疑念がわいてきてしまった。よく、わからない。悩んだあげくの(いまのところの)結論として、「か細さよ」を強調するためのテクニックだろうと決めてみた。しなった枝に、人間並みの「健気さ」を見ているのだと……。好意的にこれをとって、作者の身近に「擬木瓜化」したいような健気な「人」が存在していたのだろうと……。「木瓜」を詠んで「人」を詠んだのだと。実は私は、たいした理由根拠もないけれど、どうも動植物の擬人化が好きになれない。チャーリー・ブラウンは好きですが、スヌーピーはそんなに好きじゃないのです。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




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