August 2782000

 秋の蚊の声や地下鉄馬喰町

                           大串 章

昼の地下鉄の駅に降りていくと、ときにホームの人影がまばらで、閑散としていることがある。いままでいた地上の街がざわめいていただけに、自分だけ取り残されたような侘びしい気分になる。加えて、弱々しげな「秋の蚊の声」が唐突に傍らをよぎった。「おや」と思うと同時に、作者はここが「馬喰町」(現在の正式名は「日本橋馬喰町」)であることに、あらためて思いが至った。かつて殷賑を極めたであろう馬の市を想像し、蚊や虻はつきものの土地柄だったはずだと、微笑のうちに「秋の蚊」の出現を納得している。都会暮らしの束の間の一場面を、巧みにとらえた抒情句である。なお、四角四面なことを言えば、東京の地下鉄に「馬喰町」という名の駅は存在しない。「馬喰町」はJR総武快速線の駅名で、すぐそばを走る都営地下鉄新宿線のそれは「馬喰横山駅」だ。このときに作者は恐らく、JRから地下鉄に乗り換えるところだったのだろう。この「馬喰(博労)」という職業名も、農耕馬が不必要になって以来、死語に近くなった。「伯楽」から転じた言葉のようだが、諸般の歴史的な事情を考慮して、たしかNHKあたりでは「馬喰」単体では使わないことにしているはずだ。堂々と放送で「バクロウ」と発音できるのは、したがって地名か駅名のみ。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)




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