July 2372000

 友も老いぬ祭ばやしを背に歩み

                           木下夕爾

に「祭」というと、昔は京都の葵祭(賀茂祭)を指したが、現在では各地の夏祭の総称である。この句、句会ではある程度の支持票を集めそうだが、必ず指摘されるのは「作りすぎ」「通俗的」な点だろう。「『友』って、まさかオレのことじゃねえだろうな」などのチャチャまじりに……。以前にも書いたことだが、抒情詩人であった木下夕爾の句には、どこか情に溺れる弱さがつきまとう。俳句的な切り上げがピリッとしない。その点は大いに不満だが、掲句には一見通俗的にしか表現できない必然も感じられて、採り上げてみた。二人は、祭ばやしのほうへと急ぐ人波にさからうように、逆方向へと歩いている。だから、なかなか並んでは歩けないのだ。で、友人の背後について歩くうちに、ふと彼の「背」に目がとまり、はっとした。同時に、その「背」の老いに、みずからの老いが照り返されている。もとより、その前に通俗的な句意があって、若き日には祭好きだった「友」が「いまさら祭なんかに浮かれていられるか」と言わんばかりに、黙々と歩いている姿がある。すらりと読み下せば、そういうふうにしか読めない。すらりと読んだときの「背」は比喩的なそれだ。その「背」に、私は具体を読んでしまった。だから、捨てられなかった。私の年齢が、そうさせた。成瀬櫻桃子編『菜の花集』(1994)所収。(清水哲男)




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