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July 2272000

 川上に北のさびしさ閑古鳥

                           岡本 眸

古鳥(かんこどり)は郭公(かっこう)の別称。「かっこ鳥」とも。初夏から明るい野山で鳴いているが、どこか哀愁を誘うような鳴き声で親しまれている。「岩手行四句」のうちの一句だから、川は北上川だ。「川上に北」と舌頭に転がせば、おのずから「北上川」に定まる仕掛けになっている。こんなところにも、俳句ならではの楽しさがある。そして「北のさびしさ」とは、渋民村(現在の岩手郡玉山村大字渋民)の石川啄木に思いを馳せての感傷だろう。もちろん「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」の一首も、感傷の底に流れている。芭蕉に「うき我をさびしがらせよかんこどり」があるように、このときの閑古鳥の鳴き声は、いやが上にも作者の感傷の度合いを高めたのである。澄み切った青空に入道雲が湧き、川面はあくまでも清冽に明るく流れ、寂しげな閑古鳥の声が聞こえてくる。心身ともにとろけるような感傷に浸るのも、また楽し。旅情を誘う好句だ。私はこの五月に出かけてきたばかりだが、また北上川を見に行きたくなった。今日も、しきりにカッコーと鳴いているだろう。『矢文』(1990)所収。(清水哲男)


May 1852001

 郭公や寝にゆく母が襖閉づ

                           廣瀬直人

公(かっこう)が鳴いているのだから、昼間である。外光はあくまでも明るく、郭公がしきりに鳴いている。この好日に、老いて病身の母はとても疲れた様子だ。「少し休みたい……」と言い、次の間に「寝に」立った。そろりそろりと、しかしきっちりと、作者の前で「襖(ふすま)」が閉められる。たかが襖ではあるけれど、きっちりと閉められたことにより、残された作者の心は途端に寂寥感に占められた。襖一枚の断絶だ。細目にでも開いていれば、まだ通じ合う空気は残る。しかし、このときの襖を隔てた向こうの部屋は、もはやこちらの部屋とは相いれぬ世界となった。急に、母親が遠く手の届かぬ見知らぬ世界に行ってしまったようだ。いくつになっても子供は子供と言うが、逆もまた真なりで、いくつになっても親は親である。とくに母親は、いつまでも元気に甲斐甲斐しく家事を切り回す存在だと、どんな子供も漠然とそう信じて生きているだろう。だが、決してそうではないという現実を、この真昼に閉ざされた一枚の襖が告げたのである。郭公は、実に明るいような寂しいような声で鳴く。そこで時代を逆転させ、掲句に一句をもって和するとすれば、すなわち「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」(松尾芭蕉)でなければなるまい。ちなみに「閑古鳥(かんこどり)」は「郭公」の異名である。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


May 0752003

 郭公や夜明けの水の奔る音

                           桂 信子

語は「郭公(かっこう)」で夏。私の田舎ではよく鳴いたが、いまでも往時のように鳴いているだろうか。どこで聞いても、そぞろ郷愁を誘われる鳴き声である。掲句は、旅先での句だろう。というのも、慣れ親しんだ自分の部屋での目覚めでは、ほとんど外の音は聞こえてこないはずのものだからだ。もちろん、四囲には常に何かの音はしている。が、それこそ慣れ親しんでいる音には、人はとても鈍感だ。鈍感になれなければ、とても暮らしてはいけない場所もたくさんある。でも、平気で住んでいる。私はこれまでに二度、街のメインストリートに面した部屋で寝起きしたことがあるけれど、すぐに音は気にならなくなった。たとえ郭公の声であれ「水の奔(はし)る音」であれ、同じこと。土地の人には、そんなには聞こえていないはずなのだ。それが旅に出ると、土地の人にはごく日常的な音にもとても敏感になる。旅人は、まず耳から目覚めるのである。だから、地元の人は、こういう句は作らないだろう。いや、作る気にもならないと言うべきか。作るとしても、郭公の初鳴きを捉えるくらいがせいぜいだ。それも、掲句のように、郭公の鳴き声が主役になることはないと思う。句意は明瞭で、こねくりまわしたような解釈は不要だろう。単純にして美しい音風景だ。その土地の音の美しさは、よその土地の人が発見する。私がこねくりまわしたかったのは、そこらへんの事情についてであった。『緑夜』(1981)所収。(清水哲男)


March 1332015

 数へてはまた数へけり帰る鴨

                           牧野洋子

に渡ってきた鴨類が春には列をなして帰ってゆく。冬鳥は主として越冬のために日本より北の国から渡ってきて、各池沼に分散して冬を過ごす。冬が終わると再び繁殖のために北の国に帰ってゆく。小さな群れが次第に数を拡大させつつ大群となって帰って行く。さてこの帰る鴨の隊列を空に見るに数えるのはかなり厄介である。目の子で百羽単位で何単位まで数えられるだろうか。まだ水面に散っている時でさえ、どれも同し顔でくるくると泳がれては中々数えにくいものである。とはいえ興に乗ってしまうと数える事を止められない。そんなこんなの季節もやがて移ろってゆく。再び春の気配と共に池沼に羽ばたきを繰り返し、いざ時が来ると飛び立ってゆく。後には留鳥のカルガモが残るのみとなる。他に<郭公やフランスパンの棒立ちに><雁渡る砂漠の砂は瓶の中><冬の雁パンドラの箱開けてみよ>などあり。『句集・蝶の横顔』(2014)所収。(藤嶋 務)


June 1062016

 郭公の声に高原らしくなる

                           中村襄介

公は四月から五月にかけて南方から渡ってきて、夏が終わると南へ帰ってゆく。人間様もこれから夏休みに向かって非日常の世界へ飛び出したくなる。切符は青春切符、泊まりはホテルではなく民宿へ。あれやこれやと思いをめぐらせた結果涼しい高原へ向かうこととなった。「汽車の窓からハンケチ振れば〜」歌を口ずさんだりして心晴れ晴れと、高原列車は走り車窓を満喫する。到着した山は緑、渓は透明、空気はオゾンに富んでいる。天気も上々であるが何か一つ物足りない。思っていた矢先に「カッコゥ」「カッコゥ」の鳴き声。これだ、郭公の鳴き声が加わり高原のイメージはとことん充足された。「朝日俳壇」(「朝日新聞社」2014年7月28日付)所載。(藤嶋 務)




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