July 0872000

 あんぱんを落として見るや夏の土

                           永田耕衣

意味といえば無意味。ナンセンスの極地。どこがよいのかと問われても、答えに窮する。だが、この句には確実に読者をホッとさせる力がある。それは、どなたも否定できないだろう。耕衣は第一句集『加古』(1934)の自跋で、「一句を得て空漠、二句を得て猶空漠たるが、われらの望むところ」と書いている。出発時からして、意味や知恵を俳句に求めなかったということだろう。さらに敷衍して考えれば、それでなくとも人は世俗的な意味や知恵のなかで生きてゆかねばならぬのに、さらに俳句で屋上屋を重ねるなど愚の骨頂ということのようだ。耕衣は終生、このニヒリズムを手放さなかった。しかし、空漠を生みだすのは、そう簡単なことではない。デタラメでは駄目なのだ。無意味は、常に意味を意識する宿命にあるからである。掲句にそくしていえば、キーは「落として見るや」だ。一つの意味は「試みに落としてみる」であり、もう一つの意味はうかつにも「落として」しまい、それから夏の土を「見る」だろう。この二つの意味が合体したときに、中七句は限りなく無意味に近い意味に転ずる。両方の意味が一瞬同時に読者の脳裏に明滅し、その効果で世俗の意味ははぎ取られてしまう。だから、おのずからホッとする……。「夏の土」の必然性は、他の季節の湿った土だと、乾いた空漠感を提出できないところにある。「あんぱん」がべちゃっとした土に落ちると、そのイメージに気を取られてしまい、中七が利かなくなるからだ。でも、この解釈には異論が出そうだなア(笑)。『人生』(1988)所収。(清水哲男)




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