June 2562000

 さし招く團扇の情にしたがひぬ

                           後藤夜半

人数の会合。宴席だろうか。とくに座る場所が定められていない場合、部屋に入ったときにどこに座ろうかと、一瞬戸惑ってしまう。見知らぬ人が多いときには、なおさらだ。ぐるりと見渡していると、向こうの方から「さし招く」団扇に気がついた。顔見知りではあるが、そんなに親しい人でもない。でも、その人のさし招きように何かとても暖かいものを感じたので、その「情」にしたがったというのである。一般的に「さし招く」など他人に合図を送る場合、手に持った物を使っての合図は失礼とされる。よほど親しい間柄であれば、箸を振り回して呼んだりもするが、これは例外。かつてボールペンだかシャープペンシルだかで記者を指名した首相もいたけれど、当人は格好よいつもりでも、この国のマナーとしては最低の部類に属する。したがって、掲句のシチュエーションを四角四面にとらえれば、やはり失礼なことには違いない。しかし「さし招く團扇」の様子に、そんなことは別と言わんばかりの「情」がこもっていたので、気持ち良くしたがえた。だから、あえて作者はこういう句を詠んだというわけだ。このとき、夜半は七十代か。本物の「情」の味が、身にしみてわかってくる年齢だろう。その点で、私などはまだまだほんの小僧でしかない。蛇足ながら、最近は、とんとこの「情」という言葉を聞かなくなった。「情」で「IT革命」はできないからね。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)




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