June 2162000

 紫陽花に吾が下り立てば部屋は空ら

                           波多野爽波

っはっは、そりゃそうだ。そういう理屈だ。……と読んで、さて、このあまりにも当たり前な世界のどこに魅力を感じるのかと、さっきから句を反芻している。咲いた紫陽花をよく見ようと、作者は庭に下り立った。私だったら、意識はたぶんそのまま紫陽花に集中するだろうが、爽波は違う。集中する前に、ふっと後ろが気になっている。すかさず、その気持ちを詠んだというわけだ。梅雨の晴れ間だろう。明るい庭から部屋を振り向いたとしたら、そこは暗くて湿っぽい「空ら」の空間だ。この対比を考えると、自分がこの世からいなくなったときの「空ら」の部屋そのものとして浮き上がってくるようである。庭に下りても、この世からおさらばしても、部屋はそのがらんどう性において、まったく変わりはない。掲句はそのことを強調しているわけでもないし、暗示すらしていないのだが、しかし、この「空ら」にはそのあたりまで読者を連れていく力がある。力の源にあるのは、結局のところ「俳句という様式」だろうと思う。俳句として読むから、読者は「はっはっは」ではすまなくなるのだ。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)




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