June 1862000

 老境や空ほたる籠朱房垂れ

                           能村登四郎

の「ほたる籠」は、とてつもなく大きく感じられる。人間の乗る籠くらいには思える。「空(から)」が空(そら・くう)を思わせ、「朱房」が手に重い感覚を喚起するからだ。もとより、作者が見ているのは、細くて赤い紐のついた普通の小さな蛍籠だろう。句のどこにも大きく見えるとは書いてないけれど、それが大きく感じられるのは「老境」との響きあいによるものだ。老境にはいまだしの私が言うのも生意気だが、年齢を重ねるに連れて、たしかに事物は大きく鮮明に見えてくるのだと思う。事物の大小は相対的に感じるわけで、視線を活発に動かす若年時には、大小の区別は社会常識の範囲内に納まっている。ところが、身体的にも精神的にも目配りが不活発になってくる(活発に動かす必要もなくなる)と、相対化が徹底しないので、突然のように心はある一つのものを拡大してとらえるようになる。単なる細くて赤い紐が、大きな朱房に見えたりする。そのように目に見えるというよりも、そのように見たくなるというべきか。生理的な衰えとともに、人は事物を相対化せず、個としていつくしむ「レンズ」を育てていくようである。「老境」もまた、おもしろし。一抹の寂しさを含んだうえで、作者はそのようなことを言いたかった……。『菊塵』(1988)所収。(清水哲男)




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