June 1662000

 六月の水辺にわれは水瓶座

                           文挟夫佐恵

の星座も「水瓶座」。嬉しくなってここに拾い上げてはみたものの、はて、なぜ「六月の水辺」なのか。肝心要のところが、よくわからない。六月は梅雨季ということもあり、たしかに水とは縁がある。が、句の情景は雨降りのそれではないだろう。むしろ、良い天気の感じだ。ならば、梅雨の晴れ間の清々しさを「水辺」に象徴させたのだろうか。陽光が煌めく水を見つめながら、ふと自分が水瓶座の生まれであったことを思い出した。そこで「水辺」に「水瓶」かと、その取り合わせにひとり微笑を浮かべている……。そんな思いを詠んだ句のような気がしてきたのだが、どんなものだろう。私の詩集に『水甕座の水』というのがあって、ときどき「どんな意味か」と聞かれる。聞かれると困って、いつも「うーん」と言ってきた。正直言って、なんとなくつけたタイトルなのだ(同名の詩編はない)。この詩集について、飯島耕一さんに「水浸しの詩集だ」と評されたことがあったけど、なるほど、言われてみるとあちこちに「水」が出てくる。企んだつもりはないのだが、結果的に「水浸し」になっていたのだった。もしかすると句の作者にも格別な作意はなく、自分のなかで、なんとなく「六月の水辺」との折り合いがついているのかもしれない。星座占いに関心はないが、「水瓶座」の生まれはなんとなく「水」に引き寄せられるのだろうか。他の星座生まれの方の見解を拝聴したい。「俳句研究年鑑」('95年版)所載。(清水哲男)




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