June 1462000

 百合の花超然として低からず

                           高屋窓秋

て、窓秋晩年の一句をどう読めばよいのか。表層的な意味ならば、中学生にだって理解できる。凛乎とした百合の花讃歌だ。この百合の姿かたちに、誰も異存はないと思う。「低からず」とわざわざ述べているのは、丈の高低を問題にしているからではなく、「超然とし」た花のすがたを、なお鮮やかなイメージに補強するためである。普通に読むと「超然」に「低からず」は潜在的なイメージとして浮き上がってくるはずだが、窓秋は念には念を入れている。もっと言えば、下手くそな句になることがわかっていながらの、あえての念押しなのだ。なぜだろうかと、私は立ち止まってしまった。考えてみて、以下は私の暴論に等しいかもしれぬ結論である。すなわち、このときに窓秋は、もはや読者のイメージを喚起することに空しさを覚え、みずからが築いてきた喚起装置にも疑念を抱き、逆にそれらを封印する句を作ってみたかったのではあるまいか。誰が読んでも読み間違えのない句。言葉の通り以上でも以下でもない句。つまりは、表層的にしか読みようのない句。そんな句を作りたかった……。だからこその「念押し」だったのではないか。かつて「山鳩よみればまはりに雪がふる」と書き、天下を酔わせた俳人のこの文学的帰着は、個人的作法を越えた俳句全体の問題として、なお考えてみる必要がありそうだ。『花の悲歌』(1993)所収。(清水哲男)




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