June 1162000

 走り梅雨ちりめんじゃこがはねまわる

                           坪内稔典

雨の兆し。そのただならぬ気配に、「ちりめんじゃこ」がはねまわっている。昔から鯰は地震を予知すると言われるが、「ちりめんじゃこ」も雨期を予知するのだろうか。予知して、こんな大騒をするのだろうか。そんなはずはない。そんなことはありっこない。このとき、ただならぬのは「ちりめんじゃこ」よりも作者の感覚のほうである。誰にでも、他人はともかくとして、なんとなくそんな気がするという場面はしばしばだ。独断的な感受という心の動きがある。詩歌の作者は、この独断に言葉を与え、なんとか独断を普遍化しようと試みる。平たく言えば、「ねえ、こんな感じがするじゃない」と説得を試みるのだ。その説得の方法が、俳句と短歌と自由詩と、はたまた小説とでは異なってくる。そのことから考えて、掲句の世界は俳句でしか語れないものだと思う。たとえば、詩の書き手である私は、この独断を句のように放置してはおけない。はねまわる「ちりめんじゃこ」の様態までを自然に書きたくなってしまう。書かないと、気がおさまらないのだ。したがって、こうした句をこそ「俳句の中の俳句」と言うべきではなかろうか。ふと、そう思った。なお「ちりめんじゃこ」は関西以西の呼称だろうか。東京あたりでは「しらすぼし」と言う人が多い。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)




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