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June 1062000

 時の日の頬杖をつく男の子

                           わたなべじゅんこ

日は「時の記念日」。長いので、俳句では「時の日」とつづめて詠まれることが多い。大正九年からおこなわれているというから、そんじょそこらの何々デーとは時の厚みが違う。由来は、天智天皇の十年(661)にはじめて漏刻(水時計)が使用されたことに発する。したがって、厳密に言えば「『時計』記念日」だろう。常日ごろは活発な男の子が、どうしたわけか頬杖などついている。何か、思案にくれている。男の子の周辺だけが、時の止まったような雰囲気だ。どうしちゃったの。そんな男の子を見つめる、いかにも女性らしい暖かなまなざしで詠まれている。漫画のチャーリー・ブラウンの頬杖はつとに有名だが、彼の場合は、たいした思案をしているわけじゃない。そこが、なんとも可愛らしい。でも、漫画の主人公にかぎらず、頬杖の男の子の思案なんぞは、みな似たようなものではないだろうか。ときには、何も考えてないことだってある。単にボオッとしているだけのことが。私もその昔、教室で頬杖をついていると、よく「何カンガえてるの」と女の子に聞かれたものだ。だけど、男は絶対に聞いてこなかった。こちらの状態なんぞは、先刻お見通しだからである。『鳥になる』(2000)所収。(清水哲男)


June 1062006

 時の日や縄文服を着てをりぬ

                           宮岡節子

語は「時の記念日」で夏。大正九年に定められ、天智天皇の十年(661)四月二十五日(陽暦六月十日)、漏刻(水時計)を使用した日を記念した日だ。滋賀県大津市の近江神宮では例年通り、今日の午前11時から「漏刻祭」が行われる。つまり「時の記念日」は「時間の記念日」ではなく「時計の記念日」である。私の子どもの頃には、この記念日は、今とは比較にならないくらいに、社会的に意識されていたと思う。学校の朝礼では時間厳守の大切さが話されたし、新聞でも必ず時計に関する何らかの話題が載っていた。それはひとえに、まだ時計が高価であり普及していなかったせいだったろう。時間厳守と言われても、子どもが腕時計を持つこともなかったし、大人でも田舎で持っている人は稀だった。時計といえば、家に固定された柱時計のみで、一歩表に出るや、正確な時刻などはわからない。わからないから、待ち合わせの時間に遅れるなどは日常茶飯事であり、いくら教師がしゃかりきになって時間厳守を説いても、無駄な説教なのであった。私の田舎では、いまでも農作業や山仕事の人々に時刻を知らせるために、朝昼夕と役場のサイレンを鳴らしている。そんな環境なので、集会の開始時刻なども、いまだに「田舎時間」のようだ。定刻通りに、きっちりとははじまらないのである。ひるがえって今の都会では、時計は自分の腕をはじめとして、いたるところに存在している。たとえ時計を持っていなくても、すぐに時刻がわかるほどだ。便利といえば便利だが、時計の普及のせいで、私たちの生活の合理化は極端に進んでしまい、もはや道具にすぎないはずの時計に支配されていると言っても過言ではない。掲句は、そんな世の中に対する皮肉なのだろう。擬似的にせよ、何かのイベントで縄文服を着てみることくらいしか、私たちはゆったりとした時の流れを味わうこともままならないというわけだ。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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