May 2652000

 麦秋や自転車こぎて宣教師

                           永井芙美

の熟した畑が、四方にどこまでも広がっている。そのなかの道を、黒衣の宣教師が自転車でさっそうと行きすぎてゆく。薫風が肌に心地よい季節の情景を、いっそう気持ちよくとらえた句だ。ただし、読者がちょっと立ち止まるところがあるとすれば、「麦」と「宣教師」との取り合わせだろう。「一と本の青麦若し死なずんばてふ語かなし」(中村草田男)というキリスト教との関連だ。が、私はそこまでは踏み込まないでよいように思う。軽やかな宣教師の自転車姿が、麦秋の景観を引き立てている。そう、素朴に読んでおきたい。それよりも面白いのは、聖職者と乗り物との取り合わせに、なぜ私たちは着目するのかという点だろう。昔からなぜか、聖職に携わる人(この国では「教師」なども含まれる)には歩くイメージが固着している。乗る姿に違和感のないのは、聖職者が自分で運転しない自動車に乗っている時であるとか……。とにかく聖職者が自力で乗り物を動かすことに、庶民は違和感を感じてきたようだ。自分で乗り物をあやつる行為には、反聖的な軽薄さにつながるという認識でもあるのだろうか。馬車の時代の階級差への認識が、いまだに感覚として残っているのか。スクーターに乗った僧侶とすれ違うだけで、内心「ほおっ」と思ってしまうのは、私だけではないだろう。『福音歳時記』(1993・ふらんす堂)所載。(清水哲男)




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