May 1952000

 牡丹を見つ立つてをり全き人

                           小川双々子

者の視線と関心は、おのずから「全き人」にむかう。どんな人なのだろうか。昔から牡丹は美人の比喩に使われてきたから、凄い美人なのかもしれない。あるいは、人間世界を超越した神に近い人物という印象であるのか。説明がないので、それこそ「全く」わからない。でも、それでよいのである。この「全き人」には、姿がない。いや、姿はあるのだけれど、「全き」と作者が言ったと同時に、忽然と姿は消えてしまったのだ。そう思った。なぜなら、この句は、牡丹と牡丹を見ている人のそれぞれの姿をただ並べているのではなく、牡丹と見ている人の「関係」の充実性を詠んでいるのだからだ。花の美しさが極まり、それを見る人の感興が極まった場面の呼吸を、作者は提示したかった。すなわち、姿かたちなど問題にならないほどに、両者はお互いに高まっているのであり、このときに見る人を言葉で表現するとすれば「全き人」とでも言うしかないという句なのだと思う。このように花を見るときに、誰でもが「全き人」となる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)




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