May 0652000

 竹陰の筍掘りはいつ消えし

                           飴山 實

いさきほどまで黙々と筍を掘っている人を見かけたが、いつの間にか、その人の姿はかき消されたように見えなくなっている。作者もまた、同じ竹林のなかで掘っているのだろう。暗く湿った竹の陰での、ほとんどこれは幻想に近い光景だ。単なる実景写生を越えて、句は濃密な歴史的とも言える時間性を帯びている。読んだ途端に、私は村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」を思い出した。鬼城は遠望しているが、作者はより対象に迫った場所から詠んでいる。昔から人はあのように竹林に現れては筍を掘り、またこのようにふっと姿を消していく。その繰り返しに思われる人間存在のはかなさは、もとより作者自身のそれなのでもある。しかし、作者は侘びしいなどと言っているのではない。筍堀りに込められた充実した時間性が、ふっふっと繰り返し消えていく。消えたと思ったら、また繰り返し現れる。その繰り返しのなかで、人は人らしくあるしかないのだ。いわば達観に近い鬱勃たる心情が、句の根っこに息づいている。『花浴び』(1995)所収。(清水哲男)




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