April 3042000

 つばくらや嫁してよりせぬ腕時計

                           岡本 眸

半世紀前の句。そのころの、ごく一般的な主婦の心情と言ってよいだろう。いわゆる専業主婦の作者が、買い物の道すがらでもあろうか、ついと飛ぶ「つばくら(燕)」の姿を見かけた。ああ、もうこんな季節にと、陽光に目がまぶしい。勤めていたころには日々忙しく、燕の飛来などに時の移ろいを感じるよりも、腕時計の表示に追われてあくせくしていた。どんどん、時は容赦なく過ぎていった。それが「嫁(か)して」より腕時計の必要のない生活に入り、こうしてゆったりと時の流れを実感することができている。言い慣らされた言葉だが、いまここにある小さな庶民的幸福感を詠んだ句だ。ただ哀しいことに、この句が詠まれた一年後に、作者の伴侶は急逝している。句とそのこととはもとより無関係なのだが、一読者としてそのことを知ってしまった以上は、掲句に対して冷静のままではいられない。人間、一寸先は闇。これまた言い慣らされたそんな言葉を胸の内に立ち上げて句に戻ると、まぶしくも辛いものがこみ上げてくる。『冬』(1976)所収。(清水哲男)




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