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April 2942000

 あすなろの明日を重ねし春落葉

                           丸山海道

葉樹とは違って、シイやカシ、ヒノキなどの常緑樹は晩春に葉を落とす。「あすなろ(翌桧)」はれっきとしたヒノキ科だから、落葉はやはり春だ。名前の「あすなろ」は「明日はヒノキになろう」の意で、地方によってはずばりと「アスハヒノキ」と呼んでいるという。他には「アスヒ」「シロヒ」「ヒバ」などとも。句は、大きな「あすなろ」の落葉が重なっている様子を「明日」の重なりに見立てたもの。すなわち、「明日はヒノキになろう」とする、その希望の「明日」が、ついに実現されることなく地上に幾重にも重なって落ちてしまっている傷みを詠んでいる。しかし、不思議に無残は感じられない。秋冬の落葉はうら寂しいが、明るい陽光に舞い落ちてくる春落葉は陽性だ。夏の日を前に、いっそ葉を落としてすっきりとしたような、そんな気分に感じられるからだろう。傷ましいとは思いつつも、作者は一方で「がんばれよ、そのうちきっとヒノキになれるさ」と、明るい顔で慰めてもいるのだろう。健気な「あすなろ」への激励句だと、ここは読んでおきたい。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 3042006

 春落葉病めば帰農の悔つのる

                           斎藤惣弥

語は「春落葉」。「落葉」といえば冬の季語だが、これは春になってから木々の葉の落ちること。常磐木(ときわぎ)の古葉などが、ほろほろと落ちる。華やかな春に感じられる侘しさである。作者は一度農業を捨てて、都会で働いていた。が、何らかの事情があって、再び故郷に戻り農業に就いたのである。都会に出たのは、元来が病弱だったためかもしれない。それが一大決心をして「帰農」したのだったが、激しい労働がたたってか、病いを得てしまった。農業が体力勝負であることは、サラリーマンのそれの比ではない。とりわけて農繁期に寝込んでしまうようなことがあったら、季節は待ってくれないから、その年の前途は絶望的である。「やっぱり、俺に帰農は無理だったか」。悔いて事態が動くわけでもないけれど、焦る気持ちのなかで、ますます「悔つのる」ばかりだ。健康なときには気にも止めなかった「春落葉」が、我が身心の痛みに重なって見え、やけに侘しい。最近では「定年帰農」などとと言い、定年退職後にサラリーマンから農業に転ずる人が増えているようだが、この場合は病いも大敵だが、老いの問題もあなどれない。私の田舎の友人はみな農業のプロだけれど、老いに抗して働くことの辛さは相当なもののようだ。農作業が機械化されたとはいっても、たとえばその機械を山の上の畑に運び上げるのには人力が必要である。それが、加齢とともに苦しくなってくる。農業の楽しさばかりが語られる昨今だが、資本である身体の病いや老いについても、掲句のようにもっと語る必要があるだろう。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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