April 2642000

 割り算でといてみなさい春の水

                           三宅やよい

りゃ、とけませぬ、やよい殿。読者にこう答えさせるのが、句の眼目だ。なぜ、とけないのか。私には、わからない。ただ不思議なのは、これが「夏の水」であったり「秋の水」であったりすると、なんとなく「とけ」そうな気のするところだ。すなわち、句は遠回しながら(もちろん故意にだけど)「春の水」のありようを言い当てているのである。言語的マジックの面白さ……。「割り算」を持ちだしてきたことからすると、作者はおそらく算数好きな人なのだろう。まったく逆とも考えられるが、そうだとしたら、このような問題(!!)は作らないと思う。算数嫌いの人は、この世にとけない問題など存在しないと信じ込んでいるフシがあるからだ。そんな問題が他人にはとけるのに、自分にはとけない。算数嫌いは、このへんからはじまる。だから算数嫌いの人は、極端に言えば、今度は自分に割り切れる問題だけを探しはじめる。とけない問題など、眼中になくなる。だから、こういう発想もしない。と言っても、あくまでもこれは「算数」レベルでの話。大学の教養課程くらいまでに勉強するのが「算数」で、それ以降の学問を「数学」と言う。友人の数学者が、若き日に酔っぱらって吐いた名言である。彼は数学者ゆえに、いまだに割り勘の勘定が上手にできない。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)




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