April 0742000

 つくねんと木馬よ春の星ともり

                           木下夕爾

が暮れて、公園には人影がなくなった。残されたのは、木馬などの遊具類である。もはや動くことを止めた木馬が、いつまでも「つくねんと」一定の方向に顔を向けてたたずんでいる。いつの間にか、空では潤んだような色の春の星が明滅している。「ああ、寂しい木馬よ」と、作者は呼びかけずにはいられなかった。一般的な解釈は、これで十分だろう。しかし、こう読むときに技法的に気になるのは「つくねんと」の用法だ。人気(ひとけ)のない場所での木馬は、いつだって「つくねん」としているに決まっているからである。わざわざ念を押すこともあるまいに。これだと、かえって作品の線が細くなってしまう。ところが、俳句もまた時代の子である。この句が敗戦直後に書かれたことを知れば、にわかに「つくねん」の必然が思われてくる。実は、この木馬に乗る子供など昼間でも一人もいなかったという状況を前提にすれば、おのずから「つくねん」に重い意味が出てくるのだ。敗戦直後に、木馬が稼働しているわけがない。人は、行楽どころじゃなかったから……。したがって彼は、長い間、ずうっとひとりぽっちで放置されていたわけだ。そして、この先も二度と動くことはないであろう。つまり「つくねん」はそんな木馬の諦観を言ったのであり、諦観はもちろん作者の心に重なっている。空だけは美しかった時代のやるせないポエジー。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)




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