東京は陽がさしてますが全国的に大雪模様。お見舞い申し上げます。パスタありますか。AM7.10




2000年2月16日の句(前日までの二句を含む)

February 1622000

 山に雪どかつとパスタ茹でてをり

                           松永典子

日の「夏にしあれば」から、季節は一転して真冬へと……。実は、昨日の天気予報で「川鋭し」の故郷近辺に大雪警報が出ていたので、ぱっと掲句を思い出したという次第。もちろん私が子供だったころにパスタなんて洒落た食べ物はなかったけれど、饂飩(うどん)だっていいわけだし、作者の思いは時間を逆転しても十分に通用する。「どかつと」は雪とパスタの両方の量にかけられており、それだけでも作者の非凡な才能を認めざるをえない。加えて、素朴でのびやかな感覚が素敵だ。外の寒さと厨房の暖かさとの対比までは、少し俳句を齧った人には思いの至る発想だが、たいていはちまちまとした句になってしまいがち。ところが見られるように、作者は堂々としている。してやったりの小賢しさがない。内心では「してやったり」なのではあろうけれど(失礼)、それをオクビにも表に出さないという、いわば秘めたる力技の妙。きっと、この「どかつと」茹でられたアツアツのパスタは美味しかったでしょうね。と、思わずも作者に話しかけたくなるところに、真面目に言って、俳句的表現の必然不可欠性が存在する。私たちが俳句をないがしろにできない根拠が、質量ともにここに「どかつと」例証されている。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


February 1522000

 われら十二歳の夏にしあれば川鋭し

                           清水哲男

生日は自句自註の日。夏の句で申しわけないが、お許しあれ。十二歳は「じゅうに」と読んでください。山口県の寒村に暮らし、家はとても貧乏だったけれど、精神的にはこのころがいちばん充実していたような気がする。「21世紀まで生きられるかなあ」「無理だろうなあ」と、友だちと話したのも、このころだった。学校を出たての野稲先生から「自分の将来」という作文の題をもらって、銀行員になりたいと書いたのは、なればお金に不自由しないだろうという子供の浅智慧からだった。夏ともなれば、川での魚釣り。他には、することもなかった。かんかん照りのなかで釣り糸を垂らしていると、ぼおっとしてくる。そんな状況のなかでは、次第に川との共生感が生まれてくるのだった。川水はどこまでも清冽で、一分と手を漬けてはいられないほどの冷たさ。鋭いとしか言いようのない水の流れ。そんな川とともにあること(しかも、たったの十二歳で……)のプライドを詠んだつもりが、この句だ。たまにしか旅行できないが、見知らぬ土地へ行くと必ず川を見る。自然に見入ってしまう。川はいいな。いつだって、子供の心で眺められるから。『匙洗う人』(思潮社・1991)所収。(清水哲男)


February 1422000

 老教師菓子受くバレンタインデー

                           村尾香苗

生徒からリボンをかけた小函を差し出されて、一瞬いぶかしげな表情になる。が、すぐに破顔一笑「ありがとう」という光景。きっと、先生の笑顔は素敵だったろう。題材を「老教師」にとったところが、作者の腕前を示している。バレンタインデーのいわれは、いまさらのようだから省略するが、こうしたほほ笑ましい交歓を生んできたところもあり、一概にチョコレート屋の商業戦略をののしってみたところではじまるまい。「義理チョコ」というミもフタもない言葉もあるけれど、この場合はそうではなく、やはり真っ当な愛情表現の一つになっている。この日の句では、小沢信男の「バレンタインデー樋口一葉は知らざりき」も傑作だ。彼女の薄幸の生涯を想うとき、句にはまことに哀切な響きがあると同時に、返す刀で「義理チョコ」世相の軽薄を討つ姿も見て取れる。で、ひさしぶりに、一葉の淡い愛の世界を読みたい気分になった。ついさきほど、たしかこのあたりに文庫本があったはずだと書棚を眺めてみたが、見当たらない。発作的にある本が読みたくなったときに、こうして、私は同じ本を何冊も買う羽目におちいってしまう。昔からだ。(清水哲男)




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