February 0822000

 梅固し女工米研ぐ夜更けては

                           飴山 實

集の一つ前の句に「貯炭場に綿入れ赤し鉱区萌え」がある。作句は1955年(昭和三十年)、戦後十年目の早春だ。まだ「女工」という言葉が生きていた。当時の私は高校生、父が働いていた花火工場の寮に住んでいたので、この哀感はよく理解できる。朝早くから夜遅くまで働きづめに働いて、ようやく寮に戻ってくると、今度は自分の食事のための労働が待っていた。電気炊飯器などはない時代だから、冷たい水で米を研ぎ、火を起こして炊かなければならない。コンビニで簡単に弁当が買える今の環境とは大違いだ。「女工」たちは、多くが中学を卒業したばかりくらいの年齢だった。「梅固し」は、そんな蕾のような少女の姿を彷彿とさせている。貧しい農村や漁村から、集団就職で鉱区はもとよりいろいろな工場に働きに出た少年少女の数は膨大だった。「金の卵」とおだてられもしたが、要するに安い労働力として使われていたわけで、遊びたい盛りの彼らの心情はいかばかりだったろう。こうした人々の苦しい労働の結集があって、はじめてこの国の基盤が築かれたことを忘れてはならない。もはや高齢となった「金の卵」たちは、いまこの国に何を思って生きているのか。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます