February 0122000

 或日あり或日ありつつ春を待つ

                           後藤夜半

半、晩年の一句。うっかりすると読み過ごしてしまうほどに地味だが、鋭い感性がなければできない句だ。「或日(あるひ)」とは、特筆すべき出来事など何もないような平凡な日の意だろう。「或日」のリフレインは、そうした日々を重ねている時間についての写生である。句の面白さは、そんな平々凡々としか言いようのない時間を過ごしているなかで、しかし、いつしか「春待つ」心が芽生えていることの不思議に気がついたところだ。「春よ、来い」などと大仰に歌っているわけではなくて、自分の心のなかに自然に春を待つ感情が湧いてきている。そのことに気づいたときの、じわりと滲み出てくるような嬉しさ。それがそのまま、読者の「春待つ」心に染み入ってくる。月並みな比喩で恐縮だが、燻し銀の魅力を思わせる句だ。そこにたまたま「今日の客娘盛りの冬籠」となれば、もはや言うことなしか。ただし、俳句の出来からすれば、掲句のほうが格段に上等であることは、読者諸兄姉がご明察のとおりである。今日から二月。明後日は節分。そして四日は、暦の上での「春」となる。遺句集『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




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