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January 2812000

 寒鴉己が影の上におりたちぬ

                           芝不器男

鴉(かんがらす)は、冬のカラス。「己」は「し」、「上」は「へ」と読む。針の穴をも通す絶妙のコントロール。そんな比喩さえ使いたくなるほどの名句だ。この季節のカラスの動きを、ぴたりと言い当てている。空にあったカラスが、自分の影に吸い寄せられるように降りてきた。それだけのことだが、静止画ではなく、いわば動画をここまで活写していることに、一度でも句作経験のある人ならば、口あんぐりと言うところだろう。「やられた」というよりも「まいりました」という心が、素直にわいてきてしまう。作られたのは1927年(昭和二年)、作者はわずかに25歳だった。昔のカラスは、いまのようにごみ捨て場を漁ったりはしなかった。というよりも、ごみ捨て場には、いまのようにエサとなるようなものは少なかった。だから、エサを求める冬場のカラスは、直接に魚屋や八百屋の店先までをも襲ったという。となれば、人々の感覚としては、昔のカラスのほうが、よほど凶暴にして不吉に思えていたにちがいない。そんなカラスが、いましもさあっと舞い降りてきたのだ。しかも、おのれの影の上にしっかりと……。存在感も抜群だ。この後、カラスはどう動くのだろうか。『麦車』(ふらんす堂文庫・1992)所収。(清水哲男)


December 02122006

 人ゐれば人の顔して寒鴉

                           浅利恵子

朝もお隣のアンテナに鴉が止まっている。都会でも、都会だからか、鴉を見かけない日はない。したがって、ただ鴉といっても季節感は乏しく、鴉の巣が春季、鴉の子が夏季、初鴉は正月といった具合である。寒鴉は冬季、寒中の鴉のこと。河鍋暁斉の「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」なる絵は、枯れ枝の先にとまっている一羽の鴉の孤高な姿を描いて厳かな雰囲気さえ感じられるが、この句の寒鴉はどこか親しい。東京あたりで見られるのは、おでこの出っ張った嘴の太いハシブトガラスが大半だが、農村地帯、低山地に多く見られるのはハシボソガラス、細く尖った嘴を持ち顔もすっきりした印象である。浅利恵子さんは秋田の方なので、この場合の鴉はハシボソだろう。「朝、ごみを出しに行ったらちょこんと待っていたのよ」とお聞きした記憶がある、二年前だ。あ、カラス、と思ったその一瞬、またゴミを散らかしに来たとばかりに追い払うことなく、にっこり笑って鴉と少しの間話していたのかもしれない。賢く抜け目のない様子を、人ゐれば、それでもどこか憎めない親しさを、人の顔して、と、いかにも鴉が見える一句となった。厳しい冬を共に生きるものへのあたたかな眼差しも感じられるこの句は、平成十六年第三回芦屋国際俳句祭の募集句の中から、高浜虚子顕彰俳句大賞を受賞。「代表句はなんですか、と聞かれることがあるのだけれど、まだまだこの先もっと佳い句が詠めるかもしれない、と思うと、この句です、とは決められないの」と笑いながらおっしゃっていた。生まれ育った秋田の自然を慈しみ、日々の暮らしの中でさりげない佳句を多く詠まれたが、先日急逝された、享年五十八歳。〈あきらめは死を選ることと雪を掻く〉それでも厳しい雪との暮らしもまた好き、と、いつも前向きなまま駆け抜けてしまわれた。前出の俳句祭募集句入選句集に所載。(今井肖子)


January 3012009

 寒鴉やさしき屍より翔てり

                           坊城俊樹

場に着くやいなや「許せねえよ、鴉の奴。轢かれて死んだ猫の死体にむらがってやがる」と、車通勤の同僚が吐き捨てるように言った。年末まで木に残っていた柿を食べ尽すと鴉には食べ物が無くなる。ゴミ収集の日、きれいに分別され網を掛けられた大量の袋の前でいつまでも粘っている鴉をよく見かける。この句、鴉が動物の死体から飛び立つ。そういうふうにまず読める。そうすると「やさしき」の解釈が難しい。猫や犬や鳩など、死んだ動物の優しさを言うのは発想が飛びすぎる。この屍は鴉自身かもしれない。鴉が飢えの果てに力尽きる。息絶えた鴉の体から鴉の魂が飛び立つ。そう思うと「やさしき」が、憎まれ嫌われながら死んだ鴉の本性を言っているようにも思えてくる。『別冊俳句平成秀句選集』(2008)所収。(今井 聖)


December 21122009

 昭和の空に残されている寒鴉

                           木村和也

和も遠くなりにけり。年が明ければ、もう二十二年以上も前の昔の時代である。昨今のジャーナリズムが盛んに回顧しているのもうなずけるが、しかし昭和はずいぶん長かったので、一口に回顧するといっても、その感慨はさまざまであるはずだ。反射的に思い出す時期も、大きく分ければ戦前の昭和もあれば戦後のそれもある。でも、ジャーナリズムが好んで採り上げたがるのが三十年代の昭和であることに、私は不満を抱いてきた。戦禍からたくましく蘇った日本人、いろんな奴がいたけれどみんなが苦労をわかちあい助け合った時代、往時の小学一年生の教科書みたいに「おはなをかざる、みんないいこ」の大合唱……にはうんざりさせられる。「三丁目の夕日」に代表されるノスタルジックな世界は、表層的な回顧の、ほんの一面であるにすぎない。そんな馬鹿なと、私などはそれこそ回顧する。心をじっと沈めてみれば、あの時代も含めて、昭和はロクでもない時代だったと思う。だから私は「夕日」よりも掲句の「寒鴉」に象徴されるあれこれのほうが、口惜しい話ではあるけれど、的を射ていると思われるのだ。二十年以上も経ているというのに、なお昭和の空には孤独な姿の鴉が残されてあると写る作者の目は健全と言うべきだろう。嫌なことは忘れたいと思うのは人情だが、その反動で夕日を情緒的に美化しすぎる目は逆に病的だと言わざるをえない。この句は多くの支持を得られないかもしれないが、私はあくまでも怜悧である作者の感覚を信頼する。この鴉は決して亡霊などではなく、まぎれもなく昭和の私たちや時代の姿を象徴していると読んだ。『新鬼』(2009)所収。(清水哲男)


December 05122013

 寒鴉歩く聖書の色をして

                           高勢祥子

の少ない今の時期、電柱などに止まってゴミ出しの様子を伺っている寒鴉の翅の色は冴えない。祈祷台にあり多くの人の手で擦れた聖書はくたびれた黒色をしている。街角にひっそりたたずみ、道行く人に聖書を説く人の多くは黒っぽい服を着ていてまるで鴉のようだ。「とんとんと歩く子鴉名はヤコブ」の素十の句なども響いてくる。そんな連想をいろいろと呼び込む聖書の色と寒鴉の結びつきに着目した。同句集には「曼珠沙華枯れて郵便受けの赤」という句もあって、植物や動物の色をリアルに感じさせる色彩の比喩がうまく句に組み込まれている。『昨日触れたる』(2013)所収。(三宅やよい)


January 2512014

 寒鴉飛びあがりつゝ土を見る

                           渡辺白泉

地に建つ我が家の東南の塀の前が長年ゴミ集積場となっているが、中には行儀の悪い人もいるので、年中鴉と戦っている。考えてみれば鴉に罪があるわけでもなく、やれやれと言いつつ散乱したゴミを片付けるのだ。<首かしげおのれついばみ寒鴉>(西東三鬼)とあるように、餌の少ないこの時期の鴉は動きも鈍く侘しさが感じられると言われているが、都会の鴉も確かにややおとなしい。そんな真冬の鴉だが、掲出句の鴉には野生の迫力がある。今の今までじっとしていた鴉が急に大きく羽ばたくその一瞬、鴉の視線は地面に向けられている。うっかり這い出した虫かなにか、餌を見つけたのだろう。土を見る、とは言えそうで言えない表現であり、鴉にも大地にも生命が躍動する。『新日本大歳時記 冬』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


November 19112014

 恋人と小さな熊手買いにけり

                           清水 昶

うご存知だと思うけれど、清水昶句集『俳句航海日誌』が、今年度の「日本一行詩大賞」特別賞を受賞したことをまず喜びたい。天国の昶はもう何回も祝杯をあげてもらい、上機嫌でかつてのように酒酒酒の日々だろうと推察される。本当によかったね、カンパーイ! 生前の余白句会の場で昶はいろいろあったにせよ、厖大な数の句から井川博年他の方々が苦労して選句したもので、改めてまとめて読んでみるとおやおや。「いいじゃないか!」という声が少なからずあがった。やはり俳句は束にして読みたいものだ。先夜は彼の誕生日の小さな集まりが、彼が入りびたっていた吉祥寺の中清であった。急逝からはや三年半になる。掲出句は2004年の作だ。素直でかわいい句ではないか。今年の一の酉は今月10日だったが、二の酉は22日。私は十年前、ごったがえす鷲神社まで行った際、バカでかい熊手とそこに添えられた「石原慎太郎」という大きい札を見て、しらけてしまったことが忘れられない。ずらりとならぶバカでかくて派手な熊手は見るだけして、買うのはもちろん小さいほうだ。掲出句の隣に「とことこと我に従ふ寒鴉」という句がならんでいる。寒鴉よ、昶に従ってどうなるというのだ?『俳句航海日誌』(2013)所収。(八木忠栄)


September 1892015

 待つことをやめし時より草雲雀

                           石井薔子

雲雀と言っても鳥ではなく昆虫である。コオロギ科に属し、体長六、七ミリと小さな虫。朝の涼しいときから鳴くので地方のよっては「朝鈴」というところもある。夏の盛りもようやく越えて心なしか夕風に涼しさも感じられる頃、作者は人を待っている。どうしても会いたい人、来てくれるのかやっぱり来ないのか気を揉んで待っている。人には待つことが沢山ある。合格通知を待つ、クラス会での再会を待つ、手術の結果を待つ、日出を待つ、始発列車の到着を待つ、定年を待つ、Xデーの到来を待つ、そして貴方は今何を待っていますか。辺りが昏くなり草雲雀が鳴き出した。もう来ないんだ、待つことを止める時が来た。恋はいつでも片想い。<指先で貌をほぐすや寒鴉><介護士の深き喫煙冬の鳥><霜の夜は胎児が母をあたためむ>。『夏の谿』(2012)所収。(藤嶋 務)




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