January 2212000

 ひとの部屋見廻してゐる炬燵かな

                           岡本高明

れぞ「思い当たらせる」句表現の代表格だ。読者の誰もが、思い当たるだろう。他家の部屋に通されて、炬燵(こたつ)をすすめられる。そこに座るまではよいのだが、その後で、誰もがなんとなく部屋を見廻してしまう。あれは、別に何を見ようとするわけではない。所在なく、とも一寸ちがう。なんとなく、なのだ。ほとんど、この行為は無意味かと思われる。深く考えたことはないけれど、ここで強いて言うならば、あれは人が新しい環境に適合するための本能的な行為なのかもしれない。周囲のありようと、できるだけ早くバランスをとるための準備というわけだ。編集者時代、劇作家の飯島匡さんのお宅にお邪魔したことがある。書斎での写真撮影を申し込んだところ、言下に断られた。「親しい友人でも、書斎には通さないことにしてるから……。なぜボクの書棚に『手紙の書き方』なんて本があるのかと、そう思われるだけでイヤなんだよ」。「なるほどねえ」と、私は心のうちで大いに思い当たった。カメラマンと一緒に通された飯島さんの応接間には、あらためて見廻してみると、たしかに見事に何もなかった。「俳句界」(2000年1月号)所載。(清水哲男)




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