January 1712000

 いざさらば雪見にころぶ所迄

                           松尾芭蕉

国の方には申しわけないが、東京などに住んでいると、降雪というだけで心がざわめく。はっきり言うと、うれしくも浮き浮きしてくる。背景には、いくら降ったところでたいしたことにはならないという安心感があるからだ。せいぜい、数時間ほど交通機関が混乱するくらい。全国的にもっと降ったであろう江戸期にしても、江戸や京の町の人たちは、花見や月見のように「雪見」を遊山のひとつとして楽しんでいたようだ。やはり、うれしくなっちゃつたのである。現代では「雪見」の風習はすたれてはいる。が、昔の人と同じ心のざわめきは残っており、居酒屋などで「雪見酒」と称する遊び心の持ち合わせは失われていない。ただ、昔の人と違うのは、雪を身体で受け止められるか否かの点だろう。「雪見にころぶ」というのは、今日の私たちが誤ってスッテンコロリンとなる状態ではありえない。もっともっと深い雪のなかで「雪見」と洒落れるのには、必ず「ころぶ」ことが前提の心構えを必要とした。その「ころぶ」ことをも含めた「雪見」の楽しさであった。なるほど「いざさらば」なのである。「いざさらば」は滑稽にも通じているが、真剣にも通じている。身体ごと雪を体験した時代の人の遺言のような句だ。(清水哲男)




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