January 1012000

 一番寺の鐘乱打成人の日の老人

                           原子公平

者、六十代の句。「秩父行」の前書からすると、実景だろう。成人の日を祝って鐘を撞く風習。撞いているのは老人で、べつに意図して「乱打」しているわけでもなかろうが、六十代の原子公平にはそのように聞こえたということだ。このとき「乱打」は実際の現象というよりも、聞き手の胸中に生起したイリュージョンだと思う。若者たちの門出を寿ぐためだから、撞き方のテンポは早い。それが「乱打」と聞こえたのは、老人としてのおのれの若者に対する思いが、千々に乱れているからである。その思いは、なにも今日成人の日を迎えた人たちに対するそれだけではないのであって、みずからの過去の若者、そして現在も抱えている若者意識、そうしたところへの思いが早鐘のように心を乱打しているのだ。現在の若さへの賛嘆、羨望、嫉妬、失望……。そして、自身の若き日への自負、誇り、悔恨、失意……。そうしたものが、儀礼的形式的に撞かれているはずの鐘の音に乗って聞こえてくる。いやでも「老い」を自覚させられはじめた年代ならではの一句だ。そこで口惜しいのは、私にも作者の苛立ちがよくわかってしまうことである。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)




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