December 14121999

 枯草にキャラメルの箱河あわれ

                           金子兜太

岸の枯草のなかに、キャラメルの白茶けた空き箱が捨てられている。よく見かける光景だ。もっと暖かい時季に、どこかの子供が遊びに来て捨てていったのだろう。ここで作者は「ポイ捨て」はいけないなどと、公衆道徳的な反応はしていない。荒涼たる冬の河岸に、元気な子供の走り回る姿を二重写しにして、「あわれ」と言っている。「あわれ」は「哀れ」ではなく、何かいとおしいような感情がにじみ出てくる状態を指している言葉だ。すべてのゴミは、かつては人間とともにあった物である。したがって、この物とともに確かに人間がいたという「存在証明」なのである。だから、ゴミは単に穢い物体ではありえない。何年か前に、ドイツ領内を流れるエルベ川のほとりに立ったとき、ひどく河岸がきれいなことに違和感を覚えた。聞いてみると、河岸は立ち入り禁止なのだという。なるほど、キャラメルの箱一つ落ちていない理屈だ。まことにクリーンな光景というのも、案外と薄気味が悪いなと思ったことを覚えている。だから、かなり日本語のできるドイツ人が読んでも、句の「あわれ」はおそらく「哀れ」としか理解できないだろう。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)




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