November 28111999

 穹に出入りす白鳥の股関節

                           宇多喜代子

者は現代の人だが、「白鳥」を「くぐい」と読ませている。「くぐい(鵠)」は白鳥の古称、ないしは雅語である。「穹」は「おおぞら」だろう。つまり、上五七で句の雰囲気を太古に設定することにより、悠久の時間性を伝えようとしている。そして、下五でいきなり「股関節」という現代語を登場させて、太古と今とをはっしと結びつけた。おおよそ、そのような演出かと思われる。ここで読者は、水面にあるときは隠されている白鳥の「股関節」に思いが至る。思いが至ると同時に、再び上五に視線が戻る。もう一度、句を読み直す。そして、白鳥のいわば「隠し所」が、大空に飛翔するときは、常に露わになっていることにあらためて気がつくのである。それは太古の昔からであり、現在でも同じことである。しかし、飛翔する白鳥にはもとより、ひとかけらの羞恥の心もないであろう。この無垢の世界。「股関節」というナマな言葉を繰り出して、逆に白鳥の清澄性を際立たせている腕の冴え。小賢しく読めば、一種の人間批判の世界でもあるけれど、私としてはこのままの姿で受け止めておきたい。白鳥を見るたびに、この句を思い出すだろう。『半島』(1988)所収。(清水哲男)




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