November 23111999

 ひとり燃ゆ田の火勤労感謝の日

                           亀井絲游

労感謝の日の定義は「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう日」(1948年制定「国民の祝日に関する法律」)というものだ。どうも、しっくり来ない。元来が「新嘗祭(にいなめさい)」であり、新穀に感謝する日であったのが、皇室行事ゆえに、戦後そこらへんを曖昧化した祝日だからだ。「勤労感謝」という言葉から、この法的定義が浮かび上がるわけもなく、日本語としても変なのである。したがって、私たちは半世紀もの間、なんだかよくわからない顔をしながら、この日を休んできた。俳人たちも困惑してきたようで、これぞという句にはお目にかかったことがない。「窓に富士得たる勤労感謝の日」(山下滋久)と詠まれても、作者には失礼ながら、「ウッソォ」と言いたくなる。たまたま快晴だっただけのことで、この日をたとえば元日のように、いかにも晴朗な気分で迎えたというわけではないだろう。その点、掲句には曖昧な気持ちが曖昧のままに表現されていて、面白いと思った。冬を迎える前に、田に散らばったものを片づけ燃やしている。夕暮れになって、火の赤さがちろちろと目に写る。そういえば今日は「勤労感謝の日」だけれど、田で働く自分にとっては関係がないな。何かへの皮肉ではなく、祝日とは無縁の自分を淡々と詠んでいるところが、凡百の「勤労感謝の日」の句のなかでは傑出している。(清水哲男)




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